パヴェウ・ヴウォトコヴィツ(ポーランド語: Paweł Włodkowic、1370年頃 – 1435年)は、15世紀ポーランドにおける、カトリック教会の教会法学者。クラクフ大学の学長も務めた。ラテン語名では、パウルス・ウラディミリ(Paulus Vladimiri)と呼ばれる。「ヴウォトコヴィツ」は姓ではなく父称(父の名はヴウォジミェシュで、ヴウォトコヴィツは「ヴウォジミェシュの倅」の意味)。
現在のクヤヴィ=ポモージェ県ドブジン・ナド・ヴィスウォン近郊の村ブルゼン(Brudzeń)に生まれる。
1410年にポーランド王国がリトアニア大公国と連合してグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討った際に、ポーランド・リトアニア連合軍内に異教徒や(カトリックから見て異端の)正教徒が存在したことが、1414年から開催されたコンスタンツ公会議でドイツ騎士団側から問題として提起され、さらにドイツ騎士団側はリトアニア大公国が本来の信仰でなく政治的理由でキリスト教に改宗したものであり、彼らの改宗は無効であるからリトアニアは不信心者の集団であるとし、したがってポーランド王国が北方十字軍を展開していたドイツ騎士団を討ったのは邪悪な行為であり、神の御名と栄光と慈悲のもとにポーランド人どもを殺戮しこの地上から完全に絶滅させるべきであると主張した。
これに対してパヴェウはポーランドの使節としてコンスタンツ公会議に出席、異教徒にもその個人や彼らの国家の存在が保障される基本的な権利があると公会議で主張し、この一般論によってポーランド王国の行為の正当性を主張した。当時の西ヨーロッパにおいて、近代国際法・国際人権思想の先駆と評価されうる。また一方で公会議主義を唱え、それまでの教皇や一部の教会官僚の裁量決定権に対し、より民主的な、公会議の至上決定権を唱えた。
教皇はドイツ騎士団に対し、以後ポーランド王国に一切の危害を及ぼす事を厳しく禁止した。一方、コンスタンツ公会議ではこの異教徒の基本的権利に関する論争に対しては明確な判定は下されず、曖昧なまま公会議も論争も終結した。
1424年に引退し、現在のヴィエルコポルスカ県の街クウォダヴァの聖アエギディウス教会で一教区司祭として過ごした。そこで1435年に帰天(他界)。
コンスタンツ公会議に提出したパヴェウの論文『 Tractatus de potestate papae et imperatoris respectu infidelium 』の要旨は以下の通り:
これは国際法と基本的人権の最も初期の提唱であるが、250年以上のちのジョン・ロックと共通する法理念が見られる。一橋大学学長の山内進は、その1995年の論文において、パヴェウ・ヴウォトコヴィツをもって「国際人権思想の最初の忘れえぬ先駆者にほかならない」としている。
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