ハルハ(モンゴル語:᠋᠋᠋ᠬᠠᠯᠬ ᠠ 転写:qalq-a, Khalkha, Халх, 、中国語:喀爾喀 Kāĕrkā)は、近世モンゴルの一部族であり、現在のモンゴル国の多数派民族である。中国の内モンゴル自治区にもハルハの一部が住む。北元が滅んだ後の大順・大西・南明・清が競立期の中国地図では「喀爾喀部」「後元」「韃靼」など様々に記されている。
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居住地域 | |
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言語 | |
モンゴル語(ハルハ方言) | |
宗教 | |
チベット仏教、シャーマニズム | |
関連する民族 | |
他のモンゴル系民族 |
ハルハの起源は、元朝の左翼五投下であるジャライル部ムカリ国王家の所管にさかのぼり、その名称はハルハ川に由来する。1487年にモンゴルのバト・モンケ(Batu Möngke)がハーンの位に就いてダヤン・ハーン(Dayan Qaγan)と名乗ると、モンゴルを左翼と右翼の大きく2つに分け、さらに左翼をチャハル,ハルハ,ウリヤンハン、右翼をオルドス部,トゥメト,ヨンシエブに分けた。この6つの大部族をトゥメン(万人隊)といい、ハルハ部はハルハ・トゥメンとも呼ぶ。
ハルハ・トゥメンにはダヤン・ハーンの第5子アルジュボラトと第11子ゲレセンジェが婿に入り、その首長となった。
モンゴル宗家である左翼のチャハル部長ダライスン・ゴデン・ハーンと、右翼のトゥメト部長アルタン・ハーンとの間で争いが起きると、ハルハ部は二つに分かれてそれぞれにつくこととなる。1547年、アルジュボラトの配下部族はダライスン・ハーンに率いられて大興安嶺山脈の東に移住し、その5人の孫にちなんで、のちに五部ハルハ(タヴ・オトク・ハルハ)もしくは内ハルハと呼ばれる。ゲレセンジェの配下部族はアルタン・ハーンに附き、その7人の子にちなんで、のちに七旗ハルハ(ドロー・ホシューン・ハルハ)もしくは外ハルハと呼ばれる(ただし、「七旗」というはあくまで名称であり、実際には13部に分かれていた)。外ハルハは後に外モンゴルとなる。
ダヤン・ハーンの死後、その母方の部族であるウリャンカイが反乱を起こしたので、ウリヤンハン以外の左右翼トゥメンは1538年にウリヤンハンを討伐し、部族を解体した。東隣であった七旗ハルハはウリヤンハンの一部を吸収して牧地をハルハ川から西方に広げ、現在のモンゴル国中央部ヘンティー山脈からハンガイ山脈まで達することとなった。
このように、広大な領土を支配するようになった七旗ハルハは大きく2つに分かれることとなり、ゲレセンジェの長子アシハイの系統は右翼、ゲレセンジェの第3子ノーノホの系統と第5子アミンドラルの系統は左翼となった。
1580年代前半、ノーノホの子アバダイはアルタイ山脈の北でオイラトを破って有名となり、1585年に旧モンゴル帝国の首都カラコルムに仏教寺院エルデネ・ゾーを建立した。翌年(1586年)には内モンゴルに出向いて、巡錫中のダライ・ラマ3世に謁見し、「法の大金剛王(ノムン・イェケ・オチル・ハーン)」の称号を賜り、ハルハ部で最初のハーンとなる。彼の子孫は後にハルハ左翼の盟主トシェート・ハーン家となる。アバダイ・ハーンの死後、オイラト討伐を引き継いだのがアシハイの孫ライフル・ハーンであり、彼の子孫は後にハルハ右翼のジャサクト・ハーン家となる。これにアミンドラルの子孫のチェチェン・ハーン家を加えて「3ハーン」と呼ばれる。
ライフル・ハーンのオイラト討伐で先鋒を務めたのは従兄弟のウバシ・ホンタイジで、彼はアルタン・ハーン(黄金可汗の意で、16世紀後半にモンゴルを再統一したトゥメト部長アルタン・ハーンとは別人)と名乗ってロシアと関係を持ち、ロシアから「モンゴル王」と呼ばれた。しかし、ウバシ・ホンタイジは1623年に四オイラト連合軍の侵攻に遭って殺されてしまう。このことは後にオイラトの英雄叙事詩『ウバシ・ホンタイジ伝』として語り継がれることとなる。
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モンゴル国 |
1635年、北元のエジェイが後金に降伏し、皇帝の玉璽「制誥之宝」を太宗(愛新覚羅皇太極)に献上した。これによりハルハ部を除くモンゴル部族連合はすべて後金の支配下に入った。 後金の太宗は1636年に国号を大清(満洲語: ᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩ
ᡤᡠᡵᡠᠨ、転写: daicing gurun ダイチン国)に改めた。 これに対して、清の脅威にさらされた外モンゴルのハルハとオイラトの各部は同盟を結び、1640年に「ハルハ・オイラド法典」(「オイラト・モンゴル法典」)を制定して部族間関係を調整、ハルハとオイラトの抗争はやんだ。
ウバシの子バトマ・エルデニ・ホンタイジ(オンブ・エルデニ)は父の後を継ぎ、2代目アルタン・ハーンとしてロシアと外交した。1639年にはロシアに初めて茶をもたらした。1652年、バトマは老衰のため、子のロージャン(エリンチン・ロブザン・タイジ)に譲位し、1659年に死去した。
1662年、3代目アルタン・ハーンを名乗ったエリンチン・ロブザン・タイジは、宗主にあたるジャサクト・ハーンのワンシュクを襲撃して殺害した。これによってエリンチンはハルハ左翼のトシェート・ハーンとオイラトのジュンガル部長センゲから追われることとなり、1667年に捕まる。しかし、この混乱で生じた属民の返還について、右翼のジャサクト・ハーンと左翼のトシェート・ハーンとの間で内紛が勃発し、結果的にジュンガル部長ガルダンの侵入を招いてしまう。
1635年、ハルハ左翼の中で最も東にあったチェチェン・ハーンが清に初めて友好使節を派遣した。これに続き左翼宗主のトシェート・ハーンも1637年に通好し始めた。こうしてハルハの領主たちは独立を保ちつつも、清との関係を持ったため、1655年には左右翼4名ずつ計8名の領主が清朝からジャサク(旗長)に任命された。ハルハの領主たちは清の支配下に入ったわけでなく、朝貢部族(=同盟国)扱いだったため、清側から「外ジャサク」と呼ばれた。
17世紀、ロシア帝国はシベリアに進出し、東へ領土を広げた。その際、周辺の諸部族から毛皮などの貢納品を集めるため、河岸に砦もしくは要塞(オストログ)と呼ばれる冬営地を建設していった。一旦は清によって黒竜江(アムール川)一帯から駆逐されたロシア人であったが(清露国境紛争)、バイカル湖の東の地(ザバイカリエ)からモンゴルに侵入し、再び黒竜江地域にやって来てネルチンスク要塞(1654年)、ダウリヤ行政区(1656年)、セレンギンスク(1665年)、ウダの冬営地(後のウェルフネウジンスク)(1666年)を建設した。ザバイカリエにはハルハの貢納民であるブリヤート人やエヴェンキ人が住んでいたが、ロシア人の進出によって彼らがロシア側の貢納民となったため、ハルハの領主たちは何度もロシアに抗議した。
抗議が通じなかったハルハ左翼のトシェート・ハーンらは1681年から1682年にかけてザバイカリエに攻め込み、ネルチンスクに迫った。1685年、清がアルバジン攻撃を開始すると、モンゴルの部隊がセレンギンスクとウジンスクを包囲した。ハルハの大軍は1688年に再びセレンギンスクとウジンスクを包囲したが、モンゴル軍の完敗に終わった。
属民の返還をめぐってハルハの左右翼で内紛が起きたため、1686年、清の康熙帝はダライ・ラマ5世の名代ガンデン大僧院座主の立会いのもと、トシェート・ハーンとジャサクト・ハーンを招集して会盟を開いた。ところが、トシェート・ハーンが属民の半分しか返還しなかったため、翌年(1687年)、ジャサクト・ハーンのチェングン(成袞)はオイラトのジュンガル部長ガルダンに援助を求めようとジュンガル部へ向かった。これを知ったトシェート・ハーンはチェングンを追跡して殺し、ついでにジュンガルと交戦してガルダンの弟も殺した。
1688年春、ジュンガルのガルダン・ハーンは3万の兵を率いてハンガイ山脈を越え、トシェート・ハーンの軍を破った。ガルダンは軍を2手に分け、一隊は仏教寺院エルデネ・ゾーを攻め、一隊はヘルレン川に進んでハルハ左翼のチェチェン・ハーンの遊牧地を略奪した。これによってハルハ部は大敗北を喫し、算を乱した数10万の属民はゴビ砂漠の南(内モンゴル)に逃げて清の保護を求めた。後にハルハ全土がハルハ王家の統治下になった際には、清朝皇帝から爵位を授けられる形でハルハ統治を行うことになる。
1691年、トシェート・ハーンのチャグンドルジとその弟ジェブツンダンバは元朝の夏の都であった上都の跡地で清の康熙帝に臣従を誓った。この時、ハルハ左右翼の領主たちも列席したため、オイラト部族連合を除くモンゴル民族は全て清の支配下に入ることとなった。しかし、ハルハの遊牧地である漠北はガルダンの支配下になっていたため、康熙帝は彼らの遊牧地確保のためにジュンガル討伐に乗り出す。1696年、康熙帝は現ウラーンバートル市の東方30キロにあるジョーン・モドの地でジュンガル軍と激戦し、潰滅させた。翌年(1697年)、息子に裏切られたガルダン・ハーンは流浪の末病死する。
こうして漠北に戻ることができたハルハ部であったが、1731年になって再びジュンガルの侵攻を受けた。翌年(1732年)にもジュンガルが侵攻したため、トシェート・ハーン部のダンジンドルジ親王とエフ・ツェリンが率いる2万はジュンガル軍を撃退した。この功によってエフ・ツェリンは清朝から和碩親王(ホショイチンワン)に封ぜられ、大扎薩克(ジャサク)にのぼり、雍正帝から「超勇」の称号を授かった。エフ・ツェリンは1733年に定辺左副将軍に任命されてボブドに駐在し、ジュンガルとの国境画定交渉にあたった。1739年に画定したハルハ諸部とオイラト諸部の境界は、現在のモンゴル国西部のザブハン県東端を流れるブヤント川を境とし、オイラトの遊牧はアルタイ山脈を越えないこと、ハルハの遊牧もアルタイ山脈の北までと決まった。
清朝支配下のモンゴル人は満州人の八旗制度に準じて旗(ホシューン)を基本単位とし、旗ごとに牧地を指定した。旗長(ジャサク)は世襲制で、もとのモンゴル諸部族長が任命された。『蒙古遊牧記』において、ハルハ諸部は「外蒙古ハルハ4部86旗」に分けられ、かつての3ハーン部に加えてサイン・ノヤン部がハルハ4部の1部となっている。清朝はサイン・ノヤン部とジャサクト・ハーン部を管轄するために定辺左副将軍を置き、チェチェン・ハーン部とトシェート・ハーン部を管轄するために庫倫辦事大臣(kuren de tefi baita icihiyara amban)を置いた。
20世紀に入ると、清朝はモンゴルに対する行政改革をおこない、仏教僧侶の優遇をなくし、蒙地保護政策・漢人入蒙禁止令をやめてモンゴリアへの漢人入植をうながした。これによって内モンゴルの牧地が減少したため、外モンゴルのハルハではこの対蒙新政策に反発し、反清・反漢感情が高まっていった。
1911年12月29日、ハルハの王公たちはチベット出身のジェブツンダンバ8世を皇帝(ハーン)に推戴して清からの独立を宣言した。それまでボグド・ゲゲーン(お聖人さま)と呼ばれていたジェブツンダンバ8世はこれ以降、「ボグド・ハーン」と呼ばれるようになる。よってこの政権をボグド・ハーン政権と呼ぶが、国号はあくまで「モンゴル国」であった。
ボグド・ハーン政権は1924年にモンゴル人民共和国に代わり、1992年に現在のモンゴル国となっていく。
現在のモンゴル国の領域はかつての外モンゴルであり、そのほとんどを占めていたのがチェチェン・ハーン部,トシェート・ハーン部,サイン・ノヤン部,ジャサクト・ハーン部といったハルハ系の部族であった。よって、現代モンゴルを構成する国民のほとんどはハルハの子孫ということになる。
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