ディーノ・ブッツァーティ・トラヴェルソ(Dino Buzzati-Traverso、1906年10月16日 - 1972年1月28日)は、イタリア人の作家、短編小説家、画家、詩人。コリエーレ・デラ・セラの記者でもあった。ブッツァーティの世界的な名声は、主に彼の著作「タタール人の砂漠」に負うところが大きい。しかし同時に彼は、好評を博した短編集でも有名である。短編集 Sessanta racconti で1958年にストレーガ賞を受賞している。そのほか、舞台美術、評論、漫画も手がける。
ディーノ・ブッツァーティ Dino Buzzati | |
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誕生 | 1906年10月16日 サン・ペッレグリーノ |
死没 | 1972年1月28日(65歳没) ミラノ |
職業 | 小説家、ジャーナリスト、漫画家 |
国籍 | イタリア |
ジャンル | マジックリアリズム |
代表作 | タタール人の砂漠 |
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彼は、イタロ・カルヴィーノと並んで20世紀イタリア文学を代表する作家である。幻想的、不条理な作風からイタリアのカフカと称されることがある。
ブッツァーティは、彼の先祖が過ごしてきた町、北イタリアのベッルーノの近くの町サン・ペレグリッノに生まれた。ブッツァーティの母はヴェネチア生まれで獣医をしていた。また、父親は、古代から続くベッルーノ家の出身で国際法の教授だった。ブッツァーティは四人兄弟の二番目の子である。兄弟のうちの一人は有名なイタリア人遺伝学者のアドリアノ・ブッツァーティ・トラヴェルソである。1924年、ブッツァーティはミラノ大学法学部に入学、1928年に卒業。在学中、二年間の兵役に就く。この大学では、かつて彼の父親が教鞭を取ったことがあった(法学者である父ジュリオ・チェーザレは1920年に亡くなっている)。法学部の卒業も間近かとなった頃、22歳の時に、ブッツァーティはミラノの新聞「コリエーレ・デラ・セラ」に雇われ、働くことになった。(結局彼は死ぬまでこの新聞社に残ることになる。)最初は校正部で働いたのだが、後にはレポーターや特別特派員、エッセイスト、編集者、批評家として働くようになった。彼の記者としての背景があったからこそ彼の作風ができあがり、さらには、最も現実離れした作品にすら現実的な雰囲気が見い出されることになったのだと言われている。
ブッツァーティ本人は、その影響について下記のように述べている(ローレンス・ヴェヌーティの引用による)。
「私には、空想や夢想というものは、できる限り新聞や雑誌の記事と同じものになるべきだと思われる。実際のところは少しはそうした要素が含まれているとしても、適切なのは『陳腐なものにする』という言葉ではない。むしろ、夢想的な物語の『有効性』は、それが最も平易かつ実用的な言葉で語られることにあると言いたい」
1933年に刊行された処女小説 Barnabo delle montagne はほとんど注目されなかった。第二次大戦中、ブッツァーティはレジャ・マリナ(=海軍)付きの記者としてアフリカにいた。1939年に特派員としてエチオピアに派遣され、1940年には従軍記者として巡洋艦に乗りマタパン岬沖海戦やシルテ湾海戦などを報道したのである。戦争終結後、「タタール人の砂漠」がイタリア全土で刊行され、ブッツァーティはあっという間に批評家に認められ、名声を得ることとなった。また、短編集『七人の使者』(1942年)も高い評価を受ける。1950年代は『七人の使者』に収められている短編「七階」の戯曲化、ストレーガ賞の受賞、と成功を手にした時期である。また、ミラノで個展も開催された。1964年、ブッツァーティはアルメラ・アントニアッツィと結婚する。この結婚によって、彼の最後の作品「ある愛」が生み出されることになった。ブッツァーティは長い病の後、1972年に癌で亡くなった。
ブッツァーティは1933年に物語を書き始めた。彼の物語作品には、小説が五編、劇場やラジオ劇のための脚本、リブレット・オペラの台本、多数の短編小説、そして詩作などがある。彼のリブレット・オペラには、ルシアーノ・チャイリーのオペラ用に四編、ジュリオ・ヴィオッツィのオペラ「ラ・ジャッカ・ダナータ」用に一編がある。
ブッツァーティは童話も書いている。「クマたちの有名なシシリー島侵入の話」である。2005年の英語版では、レモニー・スニケット(=ダニエル・ハンドラー)が導入部分と読者の手引きを書いている。
ブッツァーティは芸術家として称讃を受け、作品を公にしている。そうした自分の芸術的成果と作家としての成果を組み合わせ、オルフェウスの神話を下敷きにしてマンガ「コミックの素晴らしさ」を創作した。
「タタール人の砂漠」は彼の小説の中で最も有名なものだが、タタール人の侵入を待ち構えている軍隊の駐屯地の物語である。物語の中の心情についてもまた結末に関しても、実存主義者の作品、特にアルベール・カミュの「シーシュポスの神話」と比較されてきた。
彼の著作は時おり「魔術的現実主義」「社会的疎外」として引用されることがある。そして、「環境」と「野放図な技術的進歩に直面しての空想・夢想」、こうした事柄の行く末が、何度も繰り返されるテーマとなっている。彼はまたいろいろな短編小説-その中で悪い子どもをさらって行く小鬼といった想像上の生き物や、自分自身の発明したコロンバーを取り上げている-を書いている。
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