グレッグ・バレンタイン(Greg Valentine、本名:Jonathan Anthony Wisniski1951年9月20日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ワシントン州シアトル出身。ニックネームはザ・ハンマー(The Hammer)。父親は妖鬼の異名を持つジョニー・バレンタイン。
グレッグ・バレンタイン | |
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プロフィール | |
リングネーム | グレッグ "ザ・ハンマー" バレンタイン ベビーフェイス・ネルソン ジョニー・ファーゴ ジョニー・バレンタイン・ジュニア ブルー・ナイフ |
本名 | グレゴリー・ウィスニスキー |
ニックネーム | ザ・ハンマー 金髪の爆撃機 |
身長 | 183cm |
体重 | 113kg(全盛期) |
誕生日 | 1951年9月20日(72歳) |
出身地 | アメリカ合衆国 ワシントン州 キング郡シアトル |
トレーナー | ジョニー・バレンタイン スチュ・ハート ザ・シーク |
デビュー | 1970年 |
学生時代にアルバイトとしてリングに上がった経験を持つ。1970年にカルガリーでスチュ・ハートの門下生となり本格的にプロレスを学び、同年7月にアンジェロ・モスカを相手にデビュー(5分ほどで敗退)。その後ザ・シークの元でもトレーニングを受けている。
若手時代はベビーフェイス・ネルソン(Baby Face Nelson)やジョニー・ファーゴ(Johnny Fargo)のリングネームを名乗り、AWA傘下のローカル・エリアやNWF、テキサスのアマリロ地区などで試合をしていた。
1974年からエディ・グラハムの主宰するNWAフロリダ地区のCWFに移り、当初はジョニー・バレンタイン・ジュニア(Johnny Valentine, Jr.)、後にグレッグ・バレンタイン(Greg Valentine)の名前で活動する。当時、父親のジョニー・バレンタインはまだ現役選手として第一線で活躍しており、父の意向から息子ではなく「弟」と称していた(息子がデビューするほどの年齢であることが公になると、自分の商品価値が下がってしまうとジョニーが懸念したため)。
1975年2月にロサンゼルスでエドワード・カーペンティアを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得して注目を浴び、4月には当時ジャック・ブリスコの保持していたNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。
同年10月、父ジョニーやリック・フレアーが乗ったセスナ機が墜落するという事故が起きる。この時の怪我で父は引退。グレッグはこの事件後に、ジョニー・バレンタインの息子であるということを公表し、1976年よりジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区を主戦場とする。リック・フレアーとの金髪コンビで同地区認定のタッグ王座を何度となく獲得し、次代を担うヒールとして期待された。
1978年、ニューヨークのWWFに登場。当時のWWFヘビー級王者ボブ・バックランドと抗争し、メインイベンターの地位を確立した。1983年まではWWFとNWAを行き来しながら試合をしており、NWAではフレアーやロディ・パイパー、ワフー・マクダニエルらと抗争し、USヘビー級王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を3回に渡って獲得するなどトップ戦線で活躍した。
1984年より、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米侵攻を開始していたWWFに定着。ハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦する一方、ティト・サンタナとインターコンチネンタル・ヘビー級王座を巡り名勝負を繰り広げる。1985年からはジョニー・バリアントをマネージャーに迎え、ブルータス・ビーフケーキとのドリーム・チーム(The Dream Team)で活動。8月24日にバリー・ウインダム&マイク・ロトンドのUSエクスプレスからWWF世界タッグ王座を奪取し、翌1986年4月7日のレッスルマニア2において、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスのブリティッシュ・ブルドッグスに敗れるまで戴冠した。1989年にはジミー・ハートを新しいマネージャーに、ホンキー・トンク・マンとリズム&ブルース(Rhythm and Blues)を結成し、ブレット・ハート&ジム・ナイドハートのハート・ファウンデーションなどと抗争した。1991年のWWF離脱後はWCWに参戦。1992年2月17日、テリー・テイラーと組んでロン・シモンズ&ビッグ・ジョッシュからUSタッグ王座を奪取している。
その後インディー団体を転戦し、2004年にWWE殿堂に迎えられた(インダクターはジミー・ハート)。2008年3月31日には、WWE・RAWにて行われたリック・フレアーの引退セレモニーに出席した。
日本には、1970年代半ばから新日本プロレスに参戦し、常連外国人の一人であった。1975年12月4日にはイワン・コロフと組んでアントニオ猪木&坂口征二の北米タッグ王座に挑戦。同王座には1979年11月16日にも、マサ斎藤とのコンビで新王者チームの坂口&長州力に挑戦している。同年12月4日には大阪府立体育館にて、藤波辰巳が保持していたWWFジュニアヘビー級王座に体重を減らして挑戦し、好勝負を展開した。 1984年には新日本プロレスにて、WWFインターコンチネンタル・ヘビー級王者として、ノンタイトル戦ながら当時WWFインターナショナル・ヘビー級王者であった藤波辰巳とのインター王者同士の対戦が実現している(結果は逆さ押さえ込みで藤波の勝利)。1990年代は日米レスリングサミットやSWS、バトラーツ、初期の大日本プロレスなどにも来日しており、日米レスリングサミットではザ・グレート・カブキとシングルマッチで対戦した。
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