シャルル・マルタン・エミール・ガレ(仏: Charles Martin Émile Gallé、1846年5月4日 - 1904年9月23日)は、アール・ヌーヴォーを代表するフランスのガラス工芸家、陶器・家具のデザイナー、アートディレクター、工場経営者である。
1846年5月4日、ファイアンス焼きと家具の工場の息子としてフランスロレーヌ地方ナンシーで誕生。1858年にナンシー帝立高等中学校(リセ)に入学。修辞学、文学、哲学、植物学、に優れた成績を修めた。1865年の秋から67年までドイツのヴァイマルに留学し、ドイツ語の研修とデザインを修めた。1866年から67年にかけて、マイゼンタールのブルグン・シュヴェーラー社 (Burgun, Schwerer & Cie.) のガラス工場でガラス製造の技術を習得した。
1870年、プロシアとフランスの間に普仏戦争が始まり、ガレは義勇軍に志願した。1871年にプロシア軍はフランス軍を圧倒しパリに入城。敗戦国となったフランスはフランクフルト条約によりガレの故郷ロレーヌ地方の一部とアルザス全域を割譲した。退役後、父についてイギリスを訪問し、サウス・ケンジントン美術館を見学した。1873年には、ガレは父の工場に入って、ともに働くようになった。
1877年には、ガレは父に代わって工場管理責任者となった。1878年、パリ万国博覧会に独自に開発した'月光色'ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地)や陶器を出品し、銅賞を受賞。また庭園装飾のための陶器で銀賞を受賞。 1879年以後ほぼ毎年、販売品の大部分を登録したと考えられているが、現存するアルバムは少ない。 1882年、フランス北東部にあるナンシーの労働裁判所に意匠登録用の29枚のアルバムを提出。これは1980年代初頭のオークションで北沢美術館が入手した
1884年、装飾美術中央連盟主催の「石木土そしてガラス」展に出品し、金賞を受賞。1885年より、ナンシー水利森林学校に留学中の農商務省官僚で美術に造詣の深い高島得三と交流を持ち、日本の文物や植物などの知識を得たといわれる。水墨画を得意とする高島はナンシーで400点ほどの作品を描いた。ガレも高島から2点の絵画を譲られたという。このような交流が契機となって、ガレは水墨画的なぼかし表現を伴う黒褐色のガラス(のちに作者により「悲しみの花瓶」と命名された)を生み出すに至る。1887年頃のことである。
1886年、ナンシーの自宅近辺に建設した家具工房で製造を開始。
1889年のパリ万博に大量の作品を出品、また自社製パヴィリオンを用意して展示作品の演出も試みた。その結果、ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金メダル、家具部門で銀賞を受賞し、装飾工芸家として国際的な評価を得る。特に黒褐色のガラス素地を使用した一連の作品は評判がよかった。代表作に「オルフェウスとエウリディケ」がある。
1894年に家具工場が建つ敷地を買い増しして、ガラス製造のための工場を完成させる。1898年には「マルケトリ技法」、「パチネ素材」で特許を取得した。1900年のパリ万博に大量のガラス器、家具を出品。再びグランプリを獲得し、ますます評価を高めた。 1901年、「エコール・ド・ナンシー」(ナンシー派)の会長に就任した。1903年、パリのルーブル宮マルサン館で開催されたナンシー派展に出品。1904年9月23日、白血病により死去、58歳。
その後工房は、画家のヴィクトール・プルーヴェと夫人のアンリエットによって経営を続けた。製造品目はエッチングによるカメオ彫り製品が大半を占めた。
第一次世界大戦中は製造を中止していたが、戦後は娘婿のポール・ペルドリーゼによって跡を引き継がれた。アメリカの好景気にも後押しされ、再び世界に輸出されるようになるが、恐慌さなかの1931年に会社は解散。工場の敷地は売却された。
This article uses material from the Wikipedia 日本語 article エミール・ガレ, which is released under the Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 license ("CC BY-SA 3.0"); additional terms may apply (view authors). コンテンツは、特に記載されていない限り、CC BY-SA 4.0のもとで利用可能です。 Images, videos and audio are available under their respective licenses.
®Wikipedia is a registered trademark of the Wiki Foundation, Inc. Wiki 日本語 (DUHOCTRUNGQUOC.VN) is an independent company and has no affiliation with Wiki Foundation.