イーディス・ルイーザ・キャヴェル(Edith Louisa Cavell、1865年12月4日 - 1915年10月12日)は、イギリスの看護師。エディス・キャベルなどと表記されることもある。
イーディス・キャヴェル | |
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イーディス・キャヴェル | |
他言語表記 | 英語: Edith Louisa Cavell |
生誕 | 1865年12月4日 イングランド、ノーフォーク、スワーデストン |
死没 | 1915年10月12日(49歳没) ベルギー、ブリュッセル、スカールベーク |
崇敬する教派 | 聖公会 |
記念日 | 10月12日 |
イングランド、ノーリッチ近郊のスワーデストンで4人兄妹の長女として生まれた。ノーリッチの女学校を卒業後、クリーブドンの学校へと進学。卒業後は、ベルギーのブリュッセルで家庭教師(ガヴァネス)として働いた。その後、父親が病気になり帰国して、父の介護に従事する。これがきっかけとなって、看護職の道を選択することになる。
父親の回復後、1896年、30歳で王立ロンドン病院の看護師だったエヴァ・ラッケスの元で看護師としての勉強を始め、イギリスの様々な病院で看護師として働く。その後自立し、個人看護師として、訪問看護師の仕事などを行った。1907年、それまでの実績が評価され、ブリュッセルに設立されたベルギー看護学校に42歳で看護の教師としてとして招聘された。最初は4人だけの生徒だったが、6年間で400人の生徒を送り出した。
第一次世界大戦時、両陣営の兵士の命を差別なく救い、200人以上の連合国軍兵士がドイツ占領下のベルギーから脱出するのに尽力した。そのためドイツ軍に捕らえられ、軍事法廷で反逆罪の有罪判決を受け、死刑を宣告された。赦免のための国際的な圧力にもかかわらず、キャヴェルはドイツ軍銃殺執行部隊によって1915年10月12日に射殺された。彼女の処刑は国際的な非難を受け、大々的に報道された。
キャヴェルは聖公会の篤い信徒で、その信念に従って、助けを必要とするすべての人々、ドイツ、連合国の両陣営の兵士に救いの手を差し伸べた。ナイチンゲールの事績に「敵味方の区別なく」という表現が使われるが、それはナイチンゲールではなく、キャヴェルのことである。「助けを必要とする命がある限り、私は働き続ける」 (I can’t stop while there are lives to be saved.) という彼女の言葉が知られている。
イングランド国教会は彼女を列聖し、聖人暦の10月12日の聖人としている。
キャヴェルはベルギーにおける近代看護の先駆者として、存命中からすでに知られる存在だった。
キャヴェルは彼女とともに活動していたベルギー人建築家のフィリップ・ボックとともに処刑された。
また、次のような伝説が残されている。
第一次世界大戦の出来事を伝えるポストカードには、キャヴェルの処刑の様子を伝える物のほかに、ラムラーの棺に入った遺体を伝える物が複数存在する。しかし、彼女らの処刑の様子やこれらの逸話に関する情報は錯綜しており、このラムラーと呼ばれる男の身元や本当に存在したのかすら明らかになっていない。
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