アレイスター・クロウリー(アリステア・クローリイ、Aleister Crowley、1875年10月12日 - 1947年12月1日)は、イギリスのオカルティスト、詩人、著述家、登山家。魔術教団 O.T.O.(東方テンプル騎士団)等のオカルティズム団体の指導者。著作の大半は、彼が呼ぶところの「Magick」(魔術)に関するもので、西洋魔術、西洋近代のオカルティズムから出発し、性魔術を通じてインドのタントラに接近していったとみなされている。哲学、文化、政治についても執筆し、社会批評にも熱心だった。妻ローズ・イーディス・ケリーを通じて啓示を得たとし、自身をモーセやムハンマドと肩を並べる預言者だと考え、自らが創設したセレマ宗教運動を推進した。一時所属した黄金の夜明け団の知識や儀式を無許可で一般に公開してオカルト業界を騒がせた。
アレイスター・クロウリー Aleister Crowley | |
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O.T.Oグランドマスター在任時(1919年) | |
誕生 | Edward Alexander Crowley 1875年10月12日 イギリス、ウォリックシャー州レミントン・スパー |
死没 | 1947年12月1日(72歳没) イギリス、イーストサセックス州ヘイスティングス |
職業 | オカルティスト、詩人、著述家、登山家 |
国籍 | イギリス |
最終学歴 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ中退 |
代表作 | 『法の書』 トート・タロット |
配偶者 | ローズ・イーディス・ケリー、マリア・テレサ・ド・ミラマール |
影響を受けたもの
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悪魔を意味する「獣」「666」を名乗り、「偉大なる野獣」「現存する最も邪悪な男」として世に知られることを望み、派手な演出でマスコミに登場し、生涯そのイメージを演じ続けた。バイセクシュアルであることを公にしており、波乱に満ちた人生、退廃的な生き方、繰り返される薬物の使用、性魔術、時には動物の生贄を伴う秘教的な儀式・精神修行の実践等により、世間で物議をかもした。
生前の信奉者は少なかったが、死後はカウンターカルチャーで広く知られるようになり、カルト的な人気を博した。
登山家としては、1902年にオスカー・エッケンシュタインとともにカラコルム山脈の最高峰K2に挑戦した最初の西洋人として、またカンチェンジュンガの挑戦を主導したことで知られる。
クロウリーは1875年10月12日に、イギリスのウォリックシャー州のロイヤル・レミントン・スパで、エドワード・アレクサンダー・クロウリーとして生まれた。クロウリーの父は、ビール醸造業で財を成した裕福な家庭の後継ぎだったが、非国教徒のプロテスタントの宗派プリマス・ブレザレンのイクスクルーシブ・ブレザレンの伝道師になった。両親は敬虔なキリスト教原理主義者だったが、彼は子供の頃から教え込まれたあらゆる考え方に全面的に反抗した。8歳で両親の宗派の寄宿学校に入れられたが、ここの学校を含め、通った学校ではいじめられ、身体的・精神的虐待を受けた。喜びのない、抑圧された、歪な暮らしを通して、クロウリーは抑圧こそが悪の原因であり、悪魔は存在し得ないと考えるようになり、悪魔が敵であるという考えを疑った。
10代になる頃には、厳格なキリスト教徒としての教育に反抗し、キリスト教に嫌悪感を抱くようになった。11歳の時に父親と死別。聖書の矛盾について家庭教師と議論し、オカルトに傾倒し、抑圧こそが悪の原因だと考え、喫煙、自慰行為の露出、動物虐待、学校給食への異物混入、売春婦とのセックスなどを行うようになった。子どものころから残酷な面があり、母親から猫は9つの命を持つという俗説を聞いた彼は、その真偽を科学的に確かめるためと称し、猫にヒ素を飲ませ、ガスで窒息させ、ナイフで刺し、頭蓋骨を砕き、喉を切り裂き、バーナーで焼き、溺れさせ、最後には高い窓から落とすという動物虐待を行い殺害している。
19歳になるまでに「アレイスター」を名乗るようになり、チェスと登山にも興味を持ち、チェスの腕前で評判になった。1894年にスコットランド登山クラブに入会して積極的に活動し、1890年代を通じて湖水地方の登山家として活躍した。
1895年にケンブリッジ大学に入学したが、講義にはほとんど出席せず、登山と詩作に熱中し、学位を取ることなく退学した。父が残した数百万ドルもの莫大な遺産を相続したことで、世界を旅し、著作を出版する金銭的余裕を手に入れ、1898年に最初の詩集を出版し、その後も数多くの豪華な詩集を出版し、詩人として世に出ようと決心した。奇抜な服装で街を歩き、また一種の知的ゲームとして同性愛に興味を抱いた。登山家として成功し、スコットランド、アルプス、アメリカ、メキシコで登山をした。
1898年に、L・A・レグロスのイラストを添えた世界最古のボルダリングガイドのひとつを執筆した。
20代半ばまでに、19世紀の他の多くの宗教懐疑主義者と同様に、キリスト教に対する不満はオカルトへの積極的な関心に変わり、1898年に、薔薇十字団から派生した秘教主義教団の黄金の夜明け団ヘルメス教団に参入し、儀式魔術の訓練を受けた。教団でのライバルの一人が、詩人でアイルランド演劇運動を率いたウィリアム・バトラー・イェイツだった。先輩団員アラン・ベネットの指導下で学び、彼の影響で、同団の首領であるマグレガー・メイザースに師事するようになった。クロウリーは専制的になっていたメイザースに代わり、儀式的で魔術的な活動を行う「アデプト(成就者)の部屋」の支配権を握ろうと試みて失敗し、1900年に短期間で教団を追放された。
追放後、メキシコ、サンフランシスコ、ハワイ、横浜、上海、スリランカと旅し、ここでベネットと再会し、ヨーガを学んだ。
ネス湖の畔に邸宅ボレスキン・ハウスを購入すると、半ば隠棲した。ここで彼は悪魔崇拝の儀式を行い、薬物摂取、乱交、性魔術に没頭したといわれる。
世界一周旅行もして見聞を広め、登山家のオスカー・エッケンシュタインと共にカラコルム山脈の最高峰K2登頂に挑戦したが、この登山は悪天候に見舞われ大惨事となり、クロウリーは重度の高山病にかかったが、奇跡的に全員が生還した。
スウェーデン、インド、ロシア、スリランカ、日本を旅した。クロウリーは、既婚男性に恋し、両親に別の男性と結婚させられそうになっていた女性ローズ・イーディス・ケリーの窮状に怒り、彼女を意に沿わない結婚から救おうと、1904年に結婚。偽装結婚のはずだったが、結局本当の結婚となり、ローズとエジプトのカイロにハネムーンに出かけた。ローズは特にオカルト的なものに興味はなかったが、クロウリーは彼女とギザの大ピラミッドの王の部屋で一夜を過ごし魔術儀式を行い、彼女はトランス状態になり、クロウリーは彼女を通して、12歳の時に自分の守護天使とみなしたアイワスと名乗る霊的存在からのコンタクトを受けたと主張している。ローズは数日かけてアイワスのものとされるメッセージを口述し、新しい時代の始まりを告げ、教えを語り、クロウリーはこれをもとに散文詩『法の書』を書いた。この詩の中で、彼の最も有名な教えである「汝の欲することを行え、それが法のすべてである」を定式化した。フランスの作家フランソワ・ラブレーが300年以上前に『ガルガンチュワとパンタグリュエル』で述べたことで、新しいものではなかったが、クロウリーはこれをセレマと呼ぶ新しい宗教の礎とした。
1904年5月にハネムーンを終えたクロウリーは、セレマの価値を巡る論争からマグレガー・メイザースと対立して決別し、自身の独立を模索するようになった。同年夏の長女リリスが誕生。
1905年、ヤルン氷河越えの南西壁を経由するルートで、ヒマラヤ山脈の8,000メートル峰であるカンチェンジュンガ登頂に挑戦したが、失敗した。登山家としての後期の、登山中の彼のリーダーシップはチーム内に議論を引き起こし、登山をサポートする現地人のポーターに対しては冷酷だった。カンチェンジュンガ登頂でのリーダーとしての振る舞いは傲慢で、仲間の反感を買い対立し、ポーターたちを何度も殴り、一行は途中で雪崩に巻き込まれた。その後、彼をリーダーから解任しようとして失敗した仲間たちは(クロウリーは夜間の下山を勧めなかったが)夜間に下山し、雪崩に巻き込まれ、登山者1名とポーター3名が死亡した。生存者の叫び声に他のメンバーは助けようと飛び出したが、クロウリーは無視してテントに留まり、翌日、遺体収容を手伝うことなく下山し、生存者と話すこともなく現場を通り過ぎ、ダージリンで遠征隊の残金を持ち逃げし、後日新聞社に「この種の事故は、私がまったく同情できないことの一つだ」と、事故にあった仲間たちに軽蔑を示す手紙を送った。これがクロウリーが本格的に取り組んだ最後の登山であり、こうした行動により、登山界での彼の評判は一気に低下した。
妻ローズとリリスは一時インドにおり、そこでリリスはチフス熱に感染し、帰国後に病死した。娘を失ったクロウリーの悲嘆の矛先はローズに向けられ、二人の仲も急速に冷え込んだ。同時にここからクロウリーの倒錯傾向が目立ち始めている。
1907年に次女ローラが誕生。1907年頃、クロウリーはラテン語で "銀の星 "を意味するイニシャルを用いた独自の教団「A∴A∴(アルゲンティウム・アストルム)」を設立した。1909年からは、定期刊行物「The Equinox(春秋分点)」で自身の教えを広めた。この活動の初期における彼の助手は、後に軍事戦略家・歴史家として知られるジョン・フレデリック・チャールズ・フラーである。「The Equinox」では黄金の夜明け団の儀式の内容を無許可で公開し、オカルト業界を騒がせた。
自身を魔術師エリファス・レヴィの生まれ変わりと称してセレマの伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年にアルコール依存症に陥った妻ローズと離婚し、ローラの親権はローズが所有した。1912年になると、ドイツのオカルト団体でテーオドール・ロイスが指導する「O.T.O.(東方テンプル騎士団)」に入り、できたばかりの団体内で大きな衝突のもとになり、頭角を現していった。O.T.O.の中心思想はキリスト教グノーシス主義であり、インドのタントリズムと西洋秘密結社の伝統を用い、テンプル騎士団の精神的後継者であると主張していた。O.T.O.は、魔術実践に方向性や力を与えるためとしてセックスを用いる性魔術を重んじており、クロウリーはマジック(奇術)と区別するためとして「Magick」と綴る彼独自の魔術のブランドを発展させたが、それは性に焦点を当てたものだった。クロウリーは同団のイギリス支部を開設し、後に団体全体の主導権を握っており、O.T.O.はクロウリーの『法の書』を聖典として受け入れている。以後彼はこの二つの団体を主宰した。それに伴い、その奔放な異端的活動が世間で物議を醸すようになった。
第一次世界大戦前に薬物規制が始まったが、クロウリーは薬物は自己認識と自己啓発への道だと考え、規制と反対の方向に向かった。
1914年、O.T.O.の活動で渡米中に第一次世界大戦が始まり、約4年間のアメリカ滞在を余儀なくされた。ドイツはアメリカの参戦を防ごうと、アメリカでプロパガンダ出版物を出し、クロウリーはそのひとつである親ドイツの新聞『The Fatherland』にライターとして参加し、親ドイツ的なプロパガンダを作成した。彼はキュナード・ラインの定期船ルシタニア号への攻撃を勧めさえし、実際にドイツ軍によって船は魚雷攻撃され、千人近いアメリカ人が死亡し、彼は「裏切者」として非難されたが、イギリス政府の命令に従ったのだと弁明している。彼の主張通りなら、ルシタニア号沈没がアメリカ人を同盟側に引き入れたと見ることができるが、後にクロウリーがイギリス政府から給与を得ていたことが確認されている。
帰国すると、1920年にシチリア島で家を改修し、セレマ修道院と名付け聖域とし、このコミューンで信奉者達と共に暮らした。『ある麻薬常用者の日記』(1922年)を小説として出版したが、これは個人的な体験に基づくものだと言われる。冒涜的な儀式に参加した若い信奉者が死亡したとされる事件をきっかけに、イギリスの大衆紙は、クロウリーを「世界一邪悪な男」と非難し、セックスとドラッグの乱交、邪悪な魔術、獣姦、残酷な生贄などに関する薄気味悪い記事を次々と掲載し、これらの告発はセンセーショナルなだけでなく真実も含まれていた。1923年に、イタリア政府に国外退去を命じられた。
イタリアを追われた後、チュニジアに向かいヘロイン依存からの回復を試みたが、上手くいかなかった。1923年に死去したO.T.O.の指導者ロイスはクロウリーを後継者に指名し、翌年から団体を受け継ぎ、全派のトップとなる。母国イギリスでは一大バッシングキャンペーンが行われ、ほとぼりが冷めるまでフランスに滞在する事にし、フランス国内各地を転々としつつ、主にO.T.O.の同志に招かれての活動を続けた。1928年に後の魔術研究家イスラエル・リガルディーを秘書として迎え入れている。
1929年にフランス治安当局から退去を命じられる。同年、イギリスで『Magick(魔術) 理論と実践』を出版。クロウリーは、悪魔は至高の力を持っているが、彼の意志に屈服することで魔術的な力の源になるとし、悪魔崇拝の疑念を否定しているが、『Magick』には悪魔への呼びかけも記されている。マリア・テレサ・ド・ミラマールと結婚したが、短期間で離婚した。この頃から晩年にかけて、スキャンダラスな悪評も影響し、彼は社会から完全に忘れ去られていった。
1930年からドイツに活動の拠点を移し、O.T.O.の運営に力を注ぐようになった。セレマの伝道にも取り組み続けた。これらはほとんど収入にならず、クロウリーの財産は幾度も底を突いたが、その度に彼を信奉する新たなパトロンを見つけ、また、繰り返されるバッシングと剽窃を理由にした賠償請求訴訟を起こし、それも資金源にしている。彼は旅行と浪費で遺産を使い果たし、1933年のナチス政権成立による社会統制の強化でO.T.O.の活動も困難になり、ドイツでの後事をカール・ゲルマーに託してイギリスに帰国した。
1935年に自己破産を申請し、以前のような団体主催活動は不可能になったが、精力的に執筆を行い、1938年から画家のフリーダ・ハリスと共同で新しいタロットカード、トート・タロットの制作に取り組んだ。すでに還暦を過ぎていた彼は、無一文になり、ロンドンを中心にした各地の弟子たちに生活の面倒を見てもらうようになった。1939年に第二次世界大戦が勃発し、翌年から始まったロンドン大空襲を避けて、デヴォン州トーキーに移住した。この大戦中にO.T.O.は壊滅状態になり、A∴A∴もクロウリーの身内サークル程度のものになっていた。1944年、トート・タロットが完成し、その解説書『トートの書』を出版し、これが最後の功績となった。同時期に後の儀式魔術家ケネス・グラントを秘書にしている。この頃は慢性気管支炎の悪化による喘息症状に苦しめられていた。
晩年はヘロイン中毒や様々な身体の不具合に苦しみ、終戦後、イーストサセックス州の沿海の静かな片田舎ヘイスティングスの下宿で、貧困と無名のうちに、1947年12月1日に慢性気管支炎のため死去した。享年72歳。地域の人々は、彼が悪魔と手を組んだ男だという悪評を恐れ、本気で受け止めていたため、ヘイスティングス区議会はここでの彼の火葬を拒否した。葬儀は、最後まで残った弟子達によって異教式に行われ、これは議論を呼びスキャンダルとなった。
遺体は火葬され、遺灰は彼の信奉者で後継者のカール・ゲルマーのニュージャージー州の庭に埋葬された。スコットランド国立図書館にはクロウリーの原稿が所蔵されている。
クロウリーは西洋魔術を標榜する黄金の夜明け団から出発し、性魔術を通じてインドのタントラに接近していったとみなされている。性魔術そのものは世界各地にある豊穣儀礼に起源があり、特に特別視されるようなものではないが、当時の近代ヨーロッパ世界では、進化論によって神による天地創造説がナンセンスと化し、父権的な禁欲論理が揺らいでおり、キリスト教規範の緩みの中で注目を集めた。クロウリーの性魔術は、それまでキリスト教規範に圧迫されてきた異教や異端の思想の見直しの流れで生まれたものある。
インド・イラン学研究者の岡田明憲は、「この意味でクロウリーの性魔術は、正しく中世に禁じられたサバトの復興であった。そして中世のサバトは、事実というより半ば妄想であった様に、クロウリーのそれも、ヨーロッパにおける近代人の病理を色濃く反映したものなのである。それ故に、クロウリーの性魔術とタントラは似て非なるものである。」と指摘している。岡田明憲は、一見残虐なヒンドゥー教徒の動物犠牲も、近代人とは異質の人々の敬虔な行為で、クロウリーの動物虐待に示されるような残虐性とは別物であり、また、彼の性魔術は形式上もタントラとは区別されると述べている。例えば、クロウリーがテンプル騎士団に由来するとして同性愛を積極的に評価したが(実際はO.T.O.の伝統)、タントラでは男女の結びつきでなくては意味をもたない。また自慰行為を奨励したが、これもタントラにはほぼ見られない。
岡田明憲によると、クロウリーの性魔術とタントラは本質的に無関係であり、クロウリーによる両者の強い結びつきの主張は、彼の誤解によるものである。岡田明憲は、クロウリーもまた、近代ヨーロッパ文化を否定し、その超克を目指した神秘主義者の一人であるが、彼の性魔術は近代ヨーロッパ文化の産物である「自己意識」によるものであり、ヨーロッパ近代文化を脱し得ていないと評している。
セレマの教えは、表面的には欲望と放縦を正当化するものに見えるが、クロウリーにとっては、抑圧からの自己の解放、自己受容は、自己実現と悟りにつながるもので、このような自己への信頼は、後のカール・ロジャースの来談者中心療法に通じているとも評される。
ヘイスティングの人々は今でも、クロウリーに関連する場所には、彼の邪悪さ、悪のオーラが潜んでおり、彼がこの町を憎み、呪ったと信じ、ヘイスティングのビーチで取れた小石をポケットに入れておくと呪いから逃れられると考えている。
クロウリーは、意識状態の変化を起こさせるためにタントラも取り入れて性的呪法を作り、これによりペイガニズムの重要な先駆者とみなされた。
セレマは、アメリカの作家L・ロン・ハバードが新興宗教のサイエントロジーを構築する際のインスピレーションになったことが明らかになっている。
死去した時のクロウリーは無名だったが、死後に大衆文化の中で注目を集め、カルト的な人気を博す人物となった。その破天荒さは、1960年代から70年代にかけてのポップ・カウンターカルチャーで人気を集め、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967年)のアルバムジャケットには彼の顔が描かれている。 デヴィッド・ボウイの快楽主義に大きな影響を与え、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジは、1970年にボレスキン・ハウスを購入している。アングラ映画監督のケネス・アンガーは若い頃からクロウリーに傾倒し、短編映画『ルシファー・ライジング』は彼に捧げられた。
オジー・オズボーンのアルバム『ブリザード・オブ・オズ』に収録されている「ミスター・クロウリー -死の番人-」は、クロウリーをモチーフとしている[要出典]。
日本語訳されたもののみ記載。
小説
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ゲーム
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