「碁所」の検索結果 - Wiki 碁所
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碁を行うが決着が付かなかった(碁所詮議)。本因坊算悦は万治元年(1658年)に死去し、安井算知は名人の手合に進むこととなり、同時に碁所となった。この頃から、碁所という名称が公に文書で使われるようになり、後の本因坊道策への御證書にも碁所… |
碁所は家元四家をまとめる取仕切り役となり、お止め碁として対局は行わないという慣例も後にはできたと、従来の囲碁史では言われるが、以下のように本因坊道策以降の名人碁所について確認してみても、統一がされていない。 名人碁所になったのちも御城碁を打った:本因坊道策・本因坊察元 名人碁所になったのちは御城碁… |
算知と道悦の二十番碁が1675年(延宝3年)に終了すると、算知は碁所を返上、2年後の1677年に道悦も退隠するとともに道策を碁所に推挙する。この時道策は2世安井算哲、井上道砂因碩に向先、安井知哲、安井春知に向先二、林門入に向二子の手合であったことから寺社奉行より碁所を命ぜられた。碁所… |
『昭和の碁』筑摩書房 1967年 『石の鼓動』双葉社 1973年(坂田栄男のモデル小説) 『盤側の風雪』立風書房 1975年 『名人碁所』新潮社 1982年(江戸時代の名人碁所を巡る物語) 『江崎誠致の碁の本』(全3巻)筑摩書房 1982-83年 『盤上盤外の記』『碁の博物誌』『棋士の勲章』 『碁悦同衆』立風書房… |
本因坊丈和 (天保の内訌と松平家碁会の節) 碁所。法名は日竟。本因坊元丈門下。元の姓は戸谷、後に葛野(かどの)。 丈和の生地は明らかでなく、信濃、武蔵国、伊豆、江戸などの説があるが、伊豆説が有力。幼名は松之助。16歳で初段。文化4年(1807年)に庄内藩士長坂猪之助と二十一番碁… |
- 1788年3月3日〔天明8年1月26日〕)は、江戸時代中期の囲碁棋士。本因坊家九世本因坊察元。生国は武蔵国、本因坊伯元門下、名人碁所。6世井上春碩因碩との争碁に勝って本因坊道知以来の名人となり、棋道中興の祖と呼ばれる。法名は日義。 武蔵国(現在の埼玉県幸手市平須賀)に生まれる。本姓は間宮、父… |
天保9年(1838年)、師の丈和が名人碁所を引退、本因坊元丈の子の丈策が家督を継ぎ、翌年に秀和が跡目となって21歳で七段に進む。この年から御城碁に出仕し、最後の御城碁まで29局を残した。またこの機に井上幻庵因碩は天保11年、名人碁所就任の願いを幕府に提出する。これに対して争碁… |
碁所就位において6年後に地位を譲るという密約を交わし、因碩は丈和の碁所を認める口上書を提出するが、天保2年(1831年)に名人碁所に就位した丈和は約束を守らず、因碩は碁所就位の運動を起こす。天保6年(1835年)7月、松平家碁会において弟子の赤星因徹を丈和と対局させるが敗れる。(因徹吐血の局)… |
碁将棋所として本因坊算砂がつとめていたとされるが、慶長17年(1612年)に将棋所が碁所から独立し、初代大橋宗桂が最初の将棋所となったとされる。日本将棋連盟ではこの年を宗桂の名人襲位の年としている。しかし増川宏一は、この時期にはまだ、「名人」「碁所」「将棋所… |
囲碁 本因坊道悦 - 安井算知 算知の碁所襲位に異を唱えたもの。道悦定先の手合割で60番の予定であったが、16番目終了時に道悦が6番勝ち越して手合割が先先先に直ったため20番で終了し、算知は碁所を引退。 井上道節因碩 - 本因坊道知 道知が独り立ちできるかの試験碁… |
伊勢あるいは石見国出身、本因坊算悦門下、準名人。碁所の地位を巡って安井算知と二十番碁を打った。法名は日勝。 師の算悦が1658年(万治元年)に死去し、22歳で本因坊家を継ぎ、翌1659年に御城碁初出仕する。この次の御城碁が行われた1664年以降、御城碁は年中行事となった。1666年上手(七段)、その後準名人に進む。… |
『囲碁発陽論』(いごはつようろん)は、囲碁の手筋や詰碁を収めた棋書。作者は名人碁所であった4世井上因碩(道節)で、1713年(正徳3年)に完成した。難解なことで知られ、別名「不断桜」。「発陽論」とも記される。 井上因碩は本書完成後も、井上家門外不出の書とし、門下の者でも容易に見ることはできなかった… |
碁は稀であったと言われている。また道知が他三家に名人碁所就位を望んだ際には、御城碁にて「合議的作碁及び譲歩等の交渉に応ぜず、道知一人は実際力量の有らん限り対局すべし」と迫ったともされている。特に名人推薦が決まって御止碁となる前の1720年の最後の御城碁… |
^ これは明治期に刊行された安藤如意『坐隠談叢』の記述だが、この時期には「碁所」「将棋所」という言葉そのものがなく、信じがたいとの意見がある。(増川宏一『碁』及び福井正明著『囲碁古名人全集』の巻末評伝(秋山賢司)) ^ 林裕(『算悦・算知・道悦… |
本因坊元丈の実子。ただし本因坊家に残された文書「碁所旧記」では元丈の甥と記述されている。 本因坊丈和引退後に家督を継ぐが、井上幻庵因碩の名人碁所出願に際して、跡目の秀和に争碁を打たせた。 幼名は岩之介。天保5年(1834年)に、六段で本因坊丈和の跡目となる。同年御城碁に初出仕。翌天保6年の御城碁では、これが御城碁… |
碁が日本最初の争碁となった。 算悦は万治元年(1658年)死去し、その10年後の寛文8年(1668年)に算知は保科正之などへ嘆願し、欠所となっていた名人碁所に就く。秋田昇一の著書『徳川時代の囲碁界を知る 「本因坊家伝」と「碁所… |
実際に「信長から名人の称号を受けた」かには異論もある。詳細は本因坊算砂を参照。 ^ 「碁所」「将棋所」という名称がこの時期に確立していたか、また幕府から与えられた役職かどうかは疑問視する説も提示されている。詳細は「碁所」「将棋所」を参照。 ^ ただし、名人就位前に幻庵と争碁を申し出ている文書が近年、発見されている。福井正明(秋山… |
1720年1月16日(享保4年12月7日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の四世井上因碩、五世名人碁所。元の名は桑原道節で、井上道節因碩、名人因碩と呼ぶ。難解さで古今唯一とされる『囲碁発陽論』の著者。本因坊道策の弟子であったが、道策流の理論的な布石よりは力戦的な碁であったとされる。 (井上家相続時は三世であったが、後の家系書き換えに基づき四世とする)… |
因碩が辞退したために沙汰止みとなる。その後幕命により安井算知と碁所の地位を決する争碁を行うこととなり、正保2年(1646年)の御城碁を第1局とし、承応2年(1653年)まで6局を打って3勝3敗となり、碁所は決められなかったが、これが争碁の最初とされる。 1658年死去、寂光寺に葬られる。また算悦の… |
安井家(やすいけ)は、江戸時代、本因坊家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家の一つであり、名人碁所として二世算知がいる。また江戸後期には「大天才」と評される七世仙知、囲碁四哲の一人八世知得、天保四傑の一人九世算知などの名棋士がこの家門から生まれている。十世算英は明治時代まで活躍した。… |