「五十子の戦い」の検索結果 - Wiki 五十子の戦い
Wikipediaには「五十子の戦い」という名前のページがあります。検索で見つかった他のページも参照してください。
五十子の戦い(いらこのたたかい・いかごのたたかい)は、古河公方足利成氏と関東管領上杉氏一族の間で行われた戦いである。享徳の乱における激戦の一つで、武蔵国五十子(現在の埼玉県本庄市五十子)周辺において、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に続けられた合戦を指す。ただし、文明9… |
五十子陣(いかっこじん/いかっこのじん)は、埼玉県本庄市大字東五十子及び大字西五十子の一部(武蔵国児玉郡五十子)にあった室町時代中期の日本の城(平山城)。「いらこのじん」「いかごのじん」などと読まれることもある。 15世紀中頃に関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との… |
一方、房顕は長禄3年(1459年)、太田庄の戦いにおいて大敗を喫した。以後、両陣営は付近の五十子陣を挟んで長期にわたって睨み合った(五十子の戦い)。房顕は寛正7年(1466年)に五十子で病に倒れて陣没。これに対して幕府は上杉房定の子を房顕の養子として後を継がせるように命じた。これを受けて房定の次男・上杉顕定が後継者となった。… |
の主力は北武蔵の五十子陣に陣を敷いて18年に及び対峙していた(五十子の戦い)。 文明5年(1473年)、五十子陣で山内家家宰の長尾景信(白井長尾家)が死去した。白井長尾家の家督は子の景春が継いだが、家宰職(家務職とも)は当主上杉顕定が景春の叔父で惣社長尾家の… |
五十子の戦いで古河公方に敗れて戦死した。若い政真には子がなかったため、太田道灌ら扇谷家老臣達の評定の結果、政真の叔父にあたる定正が家督を継ぐ。 定正は関東管領・上杉顕定と共に五十子陣に在陣して古河公方成氏と対峙した。しかし、文明8年(1476年)に山内家の… |
上杉顕定 (カテゴリ 出典を必要とする記述のある記事/2008年9月-10月) の覇権をかけて五十子の戦いなどで争い、文明3年(1471年)には古河御所を占領してこれに勝利している。しかし文明8年(1476年)に有力家臣の長尾景春が古河公方と結んで離反したため苦境に陥り(長尾景春の乱)、翌文明9年(1477年)正月には五十子陣からも撤退せざるを得なくなった。この乱の… |
山内上杉家 (カテゴリ 室町・安土桃山時代の武家) 近年の文献史学における研究では、板鼻(現在の群馬県安中市)に上野国の守護所があり、山内上杉家の本拠地も享徳の乱をきっかけに鎌倉の山之内(または佐助ヶ谷)から板鼻に移り、軍事的必要に応じて五十子陣や下記の諸城に一時的な拠点を置いたと推定されているが、板鼻における上杉氏関連の遺構は未確認であり今後の調査が必要とされている。… |
本庄市 (カテゴリ 2006年設置の日本の市町村) の本庄早稲田駅が開業した。 中世では軍事的に重要な拠点の一つだった(五十子陣の方を参照)。 旧石器などの遺物の出土や縄文期、弥生期、古墳期と、各時代にそれぞれ遺跡がある事からも分かるように原始時代の頃より本庄には人々が暮らしていた。 本庄の古墳時代の特色として、旧児玉町下浅見の鷺山古墳が4世紀中頃(333年… |
太田道灌 (カテゴリ 15世紀の軍人) 文正元年(1466年)、関東管領・上杉房顕(憲忠の弟)が死去した。すでに上杉方は武蔵五十子(いかっこ、現・埼玉県本庄市)に城を造り、古河公方側と対峙していた。この五十子陣体制のもと、18年にわたり両軍は対峙することになる。山内家は越後上杉家から養子に入った上杉顕定が継いだ。 翌応仁元年(1467年)に京で応仁の… |
1476年 (カテゴリ 出典を必要とする記述のある記事/2021年2月) 5236年 - 5237年 1476年のカレンダー(ユリウス暦) 3月2日 - グランソンの戦い、ブルゴーニュ軍は壊走し、多数の戦利品を戦場に遺棄する 6月 - 長尾景春が関東管領上杉顕定の五十子の陣を襲撃する。(長尾景春の乱) 3月12日 - ルーカ・ガウリコ、イタリアの数学者、占星術師(+ 1558年)… |
長尾景春 (カテゴリ 上野国の人物) の動きを白井長尾家を抑えようとするものと考え、反乱を決意する。 文明7年(1475年)に武蔵国鉢形城に立て籠もり、翌年6月には反乱を起こして、顕定軍を五十子陣において大いに打ち破った。文明9年(1477年)1月には顕定軍を大いに破り、顕定の勢力を上野国にまで放逐することに成功した(五十子の戦い… |
太田資清 (カテゴリ 室町時代の人物) の調停で両者は和解、義鏡は失脚)。 応仁元年(1467年)、道真が長年仕えた持朝が河越で死去した。家督は孫の政真が継ぎ、道真は政真に従って武蔵五十子陣(埼玉県本庄市)で古河公方と対陣した。資長は江戸城にあって武蔵、相模を固めた。 文明5年(1473年)、古河公方の軍勢が五十子… |
五十子会による第三次広島戦争は、五十子会幹部の死と尾谷組組長(伊吹吾郎)の逮捕という痛み分けに終わった。血みどろの抗争が勝者無き結末を迎えてから14年が経ち、ヤクザ組織が群雄割拠する昭和は終わろうとしていたが、呉原市では尾谷組の残党に対し、五十子会の下部組織の加古村組が抗争を仕掛け、新たな火種が燻り始めていた。… |
の1月か2月)に顕定および扇谷上杉定正が守る五十子の陣(現・埼玉県本庄市五十子)を急襲すると、顕定・定正は大敗を喫して敗走した。(長尾景春の乱) 景仲・景信の2代にわたって関東管領家の家宰職を務めた景春の白井長尾家は、関東で大きな勢力を有し、景春の挙兵に小磯城(現・神奈川県大磯町に所在)の… |
上杉房顕 (カテゴリ 上杉憲実の子女) の太田庄の戦いで成氏軍の前に大敗を喫した。寛正4年(1463年)には、房顕の右腕であった山内上杉家の家宰・長尾景仲が病没し、房顕は関東管領からの辞意を表明したが、幕府に拒絶された。寛正7年(1466年)、五十子にて陣没した。享年32。関東管領は従甥の顕定が継いだ。 房顕の… |
上杉持朝 (カテゴリ 独自研究の除去が必要な記述のある記事/2022年7月-12月) 跡は顕房の遺児で孫の政真が継いだが、文明5年(1473年)、武蔵五十子の戦いにおいて戦死し、その跡を持朝の三男で顕房の弟の定正が継いだ。また、次男・三浦高救とその嫡男・義同は相模三浦氏の三浦時高の養子となった。 持朝の存在またはその行動が、扇谷上杉家興隆の基礎を築いた一方で、関東地方を複雑な権力闘争の混乱に陥れた一因とも言えるかもしれない。[独自研究… |
長尾忠景 (カテゴリ 室町時代の人物) の執事とした。これに不満を抱いた景信の子・長尾景春は足利成氏に通じ、顕定に反乱を起こした(長尾景春の乱)。 忠景は顕定方の将として甥の景春の反乱の鎮圧に転戦するも、五十子の戦いで敗北し上野に逃れるなど苦戦を強いられた。反乱が終息した後も長享の乱が勃発すると、それまで協調してきた主家の… |
児玉党 (カテゴリ 平安時代の武士) の内、庄氏は戦国時代の備中国で華々しい活躍を見せることとなる。また、本庄氏は東国における戦国時代の遠因となった五十子の戦い、つまり、その最前線地に立つこととなった。 児玉(遠峰)氏は児玉郡の阿久原牧を運営しながら河内庄(河内村)を本拠地としたが、庄氏の… |
上杉房定 (カテゴリ 室町時代の人物) 五十子を本拠地として陣を構え(五十子陣)、房定は以後16年にわたって関東に滞在して各地で成氏方の諸将との戦いに費やすこととなる。 長禄3年(1459年)10月、上杉軍は大規模な軍事攻勢をかけ、武蔵国太田荘、海老瀬口、羽継原で相次いで成氏軍と戦った(五十子の戦い… |
渋川義鏡 (カテゴリ 室町時代の人物) の再出陣命令に従うが、長禄3年5月に軍を越前国に向けて甲斐派の金ヶ崎城を攻めて逆に大敗した。激怒した義政は義敏を廃嫡し、僅か3歳の息子の松王丸を次の当主に置いた。斯波氏不在の関東の幕府軍は10月に前線基地の五十子陣付近の太田庄で古河公方と戦ったが敗北、成氏討伐は失敗した(五十子の戦い… |