菊地 直子(きくち なおこ、1971年(昭和46年)12月9日 - )は、日本の著述家でオウム真理教の元信徒。ホーリーネームはエーネッヤカ・ダーヴァナ・パンニャッターで、教団が省庁制を採用した後は「厚生省」(分割後は「第二厚生省」)に所属した。オウム真理教事件被疑者の1人として、警察庁の特別指名手配被疑者に指定され、長期間逃亡していた。
菊地 直子 | |
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誕生 | 1971年12月9日(52歳) 埼玉県 |
ホーリーネーム | エーネッヤカ・ダーヴァナ・パンニャッター |
ステージ | 師補 |
教団での役職 | 第二厚生省 |
入信 | 1989年 |
関係した事件 | なし |
判決 | 無罪(2015年11月27日、検察が上告するも最高裁は2017年12月27日に上告棄却決定) |
菊地 直子は地下鉄サリン事件に使われたサリン製造に、何らかの形でかかわっていたとして逮捕されたが、刑事裁判の過程で無関係であることが明らかにされ、逮捕容疑であった地下鉄サリン事件、VX殺人事件ともに処分保留で不起訴になり、最後に逮捕された東京都庁小包爆弾事件では起訴されたものの、裁判員裁判の東京地方裁判所では殺人未遂の幇助罪で懲役5年の判決が出たが、東京高等裁判所では無罪となった。
その後、最高裁判所で最高検察庁の上告が棄却され、無罪の確定判決。一連のオウム真理教事件で起訴された教団関係者193人のうち無罪判決を得たのは、菊地とピアニスト監禁事件において罪に問われた幹部の2人のみである。現在は、自身のブログにおいて著述活動を行っている。
埼玉県で出生。父親の仕事の都合で転居を繰り返した後に大阪市に居を定め、菊地は地元の小学校に通う。父は大学教員で大変厳格であり教育熱心な家庭であった。低学年からピアノを習い、外遊びをあまりしない子供であった。当時倍率約10倍の中学校に入学、バスケットボール部に所属。優等生タイプで成績はトップクラス、真面目でやさしく人望が厚かった。高校では陸上部に所属。3000mで11分23秒の記録を持つ。校内のマラソン大会では常に大差をつけて優勝、地区大会で上位入賞を果たしたこともある。
陸上競技で痛めた足の治療のためにヨガを始めたが、そのヨガ道場がオウム真理教の施設だったというのがマスメディアの定説になっていた。しかし、2015年8月の月刊『創』誌上での手記では、全く事実とは異なると否定している。当時、両親との関係は非常に悪かった。18歳の高校卒業後、1989年12月27日に家族の反対を押し切り、オウム真理教に入信。実家には絶対に戻りたくないと思っていた。きっかけは麻原彰晃の著作に触れ、その文中で指摘される神秘体験を経験したことであった。教団でいう「エネルギーの強いタイプ」で激しいダルドリィ・シッディ(蓮華座を組んだ状態で体が激しくはねる。教団では空中浮揚の前段階とされていた)がよく起きていた。「1997年にハルマゲドンが勃発し、アメリカ合衆国軍によって日本に核爆弾が投下される瞬間、自分自身とオウムの仲間が地下シェルターのようなところに潜んでいる」という夢をよく見たが、それを予知夢と信じていた。
1990年4月に[要出典]大阪教育大学の教育学部障害児教育課程に入学。大学には一度も通学せず、[要出典]同年4月20日より家出をする。家出は2度目で、1度目は親が雇った私立探偵によって連れ戻されている。また、2018年に菊地本人のブログでなされた家出についての回想では、私立探偵でなく2名の私服警官が登場し、警察手帳を提示し、警察署に連行するなどが具体的に述べられている。そして、1990年5月19日にはオウム真理教に出家した。
最初に配属されたのは山梨県の富士清流精舎で、1日15時間くらいの修行を1か月間続ける。この頃「修行がつらい」と出家から知り合っていた男性信者にもらす。8月には修行施設としての受け入れ体勢が整った熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市波野地区)へ行く。CBI(Cosmic Building Institute)とよばれる建築班のワークを行っていたが、当時は下向(在家信徒に戻ること)をするかどうか迷っていた。1990年の終わり頃には、我が子を捨てて修行に勤しむ信者の子供を教育する「子供班」に配属されるが、このワークは菊地には非常なストレスだったようで「帰りたい」としばしば口にするようになる。1991年6月には前述の男性信者が下向してしまう。
1991年夏には教団に陸上部が発足。きっかけは中沢新一の『チベットのモーツァルト』の中に「風の卵をめぐって」という章があり、そこに「風の行者」というチベットの行者が紹介されていたことにもとづく。「風の行者」は、瞑想しながら神秘的な「風」(ルン)の力を伴い凄まじい速度で高原を駆け抜けていく。オウムでは「修行をすればこうした境地に到達でき、世界記録達成も可能」と考えられていた。
9月には東京陸上競技協会に加盟申請するが「宗教活動されては困る」と断られたことからオウム真理教ではなく「オウム・スポーツクラブ」として加盟を認められた。陸上部は教団内では世界記録達成部とよばれていた。
菊地は同年11月の河口湖マラソン(3時間23分3秒、完走75人中24位)を皮切りに1992年(平成4年)東京国際女子マラソン(途中棄権)、1994年(平成6年)大阪国際女子マラソン(3時間7分40秒、自己ベスト記録、127位)にオウム真理教陸上競技部として出場し、一部週刊誌に取り上げられた経歴を持つ。また、1995年4月19日 - 4月25日の5回にわたり、山梨県西八代郡上九一色村の施設から東京都八王子市のアジトに爆発物の原料となる薬品類の運搬役をしたとされ(東京都庁小包爆弾事件)、ここからマスメディアにより『走る爆弾娘』の異名を付けられる(なお、後述するとおり第1審判決においては、爆発物の原料を運んでいるという認識がなかったとして爆発物取締罰則違反罪の成立は認められていない)。
地下鉄サリン事件において土谷正実が中心となったサリン製造プロジェクトに関与した殺人及び殺人未遂の容疑で警察から特別指名手配されていた。
1995年6月頃には、千葉県市川市のアパートに林泰男らと潜伏、11月までに名古屋市、京都市などを林らと共に転々とし、1996年11月には埼玉県所沢市のマンションに高橋克也、北村浩一ら他の特別手配信徒と5人で潜伏していた。1996年11月以降は足取りが途絶え、後述のように「海外逃亡説」もあったが、1997年以降は高橋と神奈川県川崎市のアパートに潜伏、2007年3月からは後述する教団外の男性と共に暮らしていた。偽名は「櫻井千鶴子」(さくらいちづこ)。
2012年(平成24年)6月3日、「菊地に似ている女を見かけた」との目撃情報が警視庁に寄せられ、それを受けて警視庁捜査一課が、担当刑事を神奈川県相模原市緑区の潜伏先に派遣し、張り込みを行った結果、潜伏先の住宅に女が帰宅したのを確認して、任意同行を求めた。
その時点では、捜査員が菊地であると確信出来なかったことから、霞が関の警視庁への身柄送致が行われた後、捜査官が照合作業を行った結果、女性が菊地本人であると確認し、警視庁が殺人及び殺人未遂容疑で、菊地に対する逮捕令状を執行し、通常逮捕を行った。
地下鉄サリン事件では処分保留となり、6月24日に3件のVX事件で殺人及び殺人未遂で再逮捕。3件のVX事件も処分保留となり、7月15日に東京都庁小包爆弾事件での殺人未遂と爆発物取締罰則違反容疑で再逮捕した。
逮捕後、警察では暴力を振るわれ、嘘の自白をさせられると考えていたところ、取調官が意外に紳士的であったことから、「こちらの言い分もちゃんと聞いてくれるんだ」と思ったが、その後地下鉄サリン事件の件になると、それまで穏便だった取調官が、態度を豹変させ怒声を浴びせ、冷徹な目で睨みつけた。少しでもわかってもらえるかと期待し、取調官に対し心を開きかけたことを後悔し、「『何も話していない』と言うなら、もう本当に話しません」と言い、その後2度と話すことはなかった。
サリン事件について「当時は何を作っていたか知らなかった」、VX事件について「事件にかかわったかどうかわからない」と容疑を一部否認し、東京都庁小包爆弾事件では黙秘をした。サリン事件とVX事件については、不起訴処分となった。
なお、菊地の逮捕直後に土谷正実の刑事裁判での検察側冒頭陳述は菊地直子が麻酔剤「チオペンタール」や覚醒剤の密造に関与していたと報道されたが、麻原彰晃の裁判の審理促進を目的として2000年10月に薬物密造事件の公訴取り消しをしていた経緯から、菊地は薬物密造事件では起訴されなかった。
のち、2015年8月号月刊『創』において、2012年6月3日の逮捕直後に菊地は国選弁護人から、過去のオウム裁判の記録中には菊地の名がほとんど上がっておらず、サリン生成には関与していないのではないかと言われ、指名手配で逃亡しているうちに、自分自身が何らかの形でサリン生成に関与してしまったのではないかと思い込み、17年間逃亡していたが、この弁護士にそう言われ「何がサリンと関係していたのかが分からなくて当たり前だったんだ」と思うようになったと述べている。
また、地下鉄サリン事件直後、教団への強制捜査が迫ったため、林泰男と逃亡したとか東京都八王子市のマンションに潜伏していたなどの報道があったが、当時、強制捜査の行われている山梨県西八代郡上九一色村にある、オウム真理教の施設内で通常の生活をしていたため、それらは正しくないと否定している。
実際に林らとの逃亡が始まったのは、逮捕状が出た直後の5月18日で、その前日に中川智正から「都心のマンションに行くよう」指示され、翌18日に当マンションにて、ほとんど面識もなかった林と合流し、17年間の逃亡生活が始まったと告白している。
マスメディアで「走る爆弾娘」の異名で呼ばれていたことに関しては、地下鉄サリン事件で指名手配同様に寝耳に水であり、中川に依頼されて、八王子市のマンションに薬品を運んだ事実があったが、それが爆弾の原材料として使われたらしいことに、この時初めて気が付いたという。
2012年8月6日に東京都庁小包爆弾事件における殺人未遂罪と爆発物取締罰則違反の各幇助罪で起訴された。裁判員裁判の初公判が2014年5月8日に東京地方裁判所(杉山愼治裁判長)で行われた。
同年6月30日の判決公判で同裁判所は「劇物などと記された薬品を運んでおり、薬品で危険な化合物が作られることを容易に想像できた」「(教団施設への強制捜査などから)教団が追い詰められている状況にあり、教団が人の殺傷を含む活動をしようとしていると認識していた」として殺人未遂幇助罪の成立は認めたものの、「爆発物がつくられるとまでの認識はなかった」として爆発物取締罰則違反幇助罪の成立を認めず、懲役5年(求刑懲役7年)の判決を言い渡した。即日、判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。
2015年(平成27年)5月13日に控訴審がはじまり、改めて無罪を主張。11月27日、東京高等裁判所(大島隆明裁判長)から無罪判決を受け、東京拘置所から釈放された。
この無罪判決については、「不合理ではないか」「いや、極めて真っ当だ」と、メディアの評価は分かれた。裁判員裁判の存在意義にまで議論が及んだほか、産経新聞だけは無罪判決が出た後もなお、元捜査機関職員の言葉を引用し「菊地元信者は教祖の側近中の側近で、女性信者の頂点にいたとされる」という誤った記事を掲載した。
二審判決は以下のような認定の上、無罪判決を下している。
2015年(平成27年)12月9日、東京高等検察庁は「井上死刑囚の証言が信用できないとする根拠が十分に具体的とは言えず、裁判員裁判の判決を尊重すべきだとした最高裁の判例に反する」などとして上告した。
江川紹子は、「いつ、どこで、何をした」という「基本情報が全く報じられなかった」報道の在り方と捜査のずさんさ、菊地が捜査員に語ったプライバシーに関わる事柄が、マスメディアに筒抜けになったことで、菊地が捜査に不信感を抱き、多くを語らなくなった事実を、厳しく批判している。
その後、2017年(平成29年)12月27日に、最高裁判所第一小法廷(池上政幸裁判長)で最高検察庁の上告が棄却され、無罪が確定判決となった。
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