一揆(いっき)とは、日本において、一つの目的のために成立した集団の組織またはその行動を意味した概念。
一揆の史学における研究は、中世の一向一揆や土一揆などから深められたため、民衆の一揆として捉えられ、領主(支配者)から禁じられるべきもので、民集の結合や暴動であるというイメージで捉えられるようになったとの指摘がある。しかし、例えば肥前松浦党は一揆契諾書に署名して結束を確認していた。日本史研究の初期の歴史学ではこれらの武士の結合は「党」(肥前国の松浦党や紀伊国の隅田党など)と呼び、一揆とは異なる継続的な政治的組織として分けて考えていた。これに対しては勝俣鎮夫などから中世の一揆について必ずしも反権力的なものに限られず、むしろ特定の作法や儀礼によって結ばれた組織であると主張されるようになった。また、近世の一揆についても、『編年百姓一揆史料集成』での調査から江戸時代の百姓一揆に武器が携行・使用された例は全体の1%弱であることがわかっている。こうしたことから歴史学における一揆のイメージの転換も示唆されるようになっている。
日本においては平安時代には単に同一であるという意味で使用されていた。院政期には延暦寺や東大寺、興福寺など、寺の僧が集まって決議を行い、これを一揆契約と称した。例えば元暦元年(1184年)には永久寺で「満山一揆之起請」がなされたという史料がある。
鎌倉時代には「心を一つにする」「同心する」といった意味合いで使われ、「一揆」は動詞的に用いられていた。また、同時代には易占の結果や意見が一致するという用例も見られた。鎌倉時代になっても一揆が組織体という捉え方は希薄で、一つになっていること、同心していることを象徴的に示す意味が強かった。
こうした状況は南北朝時代に大きく変化し、寺社、武家、村落など様々な形で組織としての一揆が登場するようになった。武士の一揆としては、文和4年(1355年)2月25日の足利尊氏近習馬廻衆連署一揆契状のように足利尊氏の親衛隊が結んだような軍団の一揆がある。また、惣領庶子の和合や団結等の盟約、惣領家の推戴や牽制の目的で一族一揆と呼ばれる一揆が結ばれることがあった。また、中小の武士層が地域集団を結成した国人一揆もみられた。
肥前国の松浦党は南北朝時代には上松浦党と下松浦党に分かれたが、このうち下松浦党の応安6年(1373年)、永徳4年(1384年)、嘉慶2年(1388年)、明徳3年(1392年)の一揆契諾書が現存しており、足利将軍家への忠節、争いの話し合いでの解決、夜盗・強盗・窃盗等の取り締まり、年貢や領地の争いは話し合って多数決で決めることなど取り決め署名を行っている。
百姓を中心とする一揆は南北朝後期に荘園単位の荘家の一揆が起きていた。その後、時代が進んで土一揆が登場したが、荘家の一揆が荘園単位だったのに対し、土一揆は京都などの都市で発生した。
戦国時代になると新たな形態の武家の一揆が出現し、室町時代後半に出現した一向一揆に加えて法華宗の一揆も出現した。さらに戦国時代には広い地域で武士のほか百姓や寺社などが、有力武士を中心に結合して一揆を行う惣国一揆も発生した。
江戸時代に入ると仁政と武威の二つの政治理念の下で、人々は暴力を封印し、幕藩領主に恐れながら訴える訴願が有効と考えられるようになった。『編年百姓一揆史料集成』で江戸時代に日本全国で発生した百姓一揆(徒党・強訴・逃散)と打ちこわしを調査したところ、武器の携行・使用があった事例は14件(0.98%)しかなく、14件のうち18世紀に発生したものは1件しかなかったことが明らかになっている。特に江戸初期には要求を通すためには武装蜂起よりも訴願の方が有効と考えられ、暴力・放火・盗みなどを禁じる百姓一揆の作法が創られ遵守されていた。そのため「百姓一揆とは、同時期のアジア・ヨーロッパに例を見ない、江戸時代特有の社会文化であった」という指摘がある。
一揆では一般に一味神水という特定の作法や儀礼が行われたが、その非日常性から、一揆の特徴についてこのような儀礼により結び付いた組織である点を重視する学説がある。一揆では結集の目的を神に誓約する起請文が書かれ、参加者全員で一揆契状を作成して署名する。この一揆契状を焼いて灰にし、水に溶かして飲む儀礼を一味神水という。
近世期は庶民の識字能力向上にともない、大量の文書が作られるようになるが、百姓一揆においても支配者の口約束は信じず、必ず文書の一札を求めるようになった点に中世期との相違がある。
南北朝時代になると、武家の組織を指して一揆と呼ぶ事例が増加した。『太平記』では白旗一揆、赤旗一揆、平一揆などの一族一揆が見られ、室町幕府が一揆に対して命令を下す事例も見られる。この頃には荘園の農民が要求を通すために行う「荘家の一揆」という用法も生まれた。また康暦の政変において、管領細川頼之の更迭を求めて将軍御所を包囲した(御所巻)守護大名たちは「一揆衆」と表現されている。いずれも武装はしていても戦闘に及ぶことは稀であった。
金融の発達により、金融業者である酒屋や土倉が富を得るようになると、この借金の棒引きを求めて、武士や浪人を指導層とし、一般庶民が加わった一揆、土一揆、または徳政一揆が頻発することになる。1428年(正長元年)には尋尊によって「日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」と評された「正長の土一揆」が発生している。1450年代から1460年代は特に土一揆が頻発し、三年に一度は発生するようになった。
また武士層の一揆も続けて行われているが、研究上では一般に国人一揆と呼ばれる。これら武家の一揆には、他の参加者を圧倒する正統性や武力を持つ指導者が存在せず、一揆契状に見られるように、局地的には全参加者が平等で民主的な合議制の場合が多く、それ故に迅速で統一的な指導者が存在せず、大部分は一時強勢を誇っても内部分裂等で弱体化し、個別に撃破される場合がほとんどであった。しかし、中には守護など上位者が、地域の中小武士に斡旋して一揆を組織させ、実質上の家臣団として編成する例も見られる。応仁の乱後には広い範囲で国人が集結する山城の国一揆、伊賀惣国一揆、甲賀郡中惣などの国一揆が畿内で発生する。[要出典]
また、この時代は寺社も領主であったことを背景に、寺社を基盤とした一揆もつくられ、浄土真宗の本願寺派や高田派、法華宗などの門徒が、自らが属する教団を中心として起こした一揆も形成された。特に著名なのが浄土真宗本願寺派の一向一揆で、加賀国(石川県)では、室町時代に応仁の乱で東軍に属した守護の富樫氏を追放し、戦国時代まで100年近くに亘って一揆勢が共和国的な体制を維持していた(加賀一向一揆)。ただし、これらの一揆の構成はかなり複雑で、門徒以外の参加者も多くおり、同時代では「土一揆」と変わらないものとみられていたこともある。
戦国時代末期には武士の集団を一揆と呼ぶことはほとんど無くなり、土民・百姓の集団を指す用語となる。しかし武士の一揆が消滅したわけではなく、戦国大名権力の中で形を変えて存続したと見られている。
1637年(寛永14年)の島原の乱以降、江戸幕府は百姓が徒党を組むことを禁じ、一揆は禁じられた。農民たちは自分たちの行為を「一揆」とは決して呼ばなかったが、農民たちが要求を通すために徒党を組む「百姓一揆」は継続して行われた。
近世の百姓一揆には次のような形態があった。
江戸時代前期には、直訴や逃散など武力を用いない一揆が主に行われた。中期には全藩一揆や惣百姓一揆、強訴などと呼ばれる大規模な蜂起が主流となる。何万人といった百姓が集結する大規模なものであるが、家屋を少し傷つけたりする程度で、放火や略奪・殺傷などは厳しく統制されていた。また、刀狩以降も大量の武器を保有していたのにもかかわらず、農民が武装することはなく、鎌や鍬などの農具を持ち、鉄砲や竹槍を攻撃のために使用することはほとんどなかった。このため対応する武士側も原則的に強硬な対応は取れず、鉄砲を用いるのには幕府の許可が必要とされた。一揆の発生は幕府から統治の失敗と見られることもあり、最悪の場合は領主の処罰や改易の恐れもあった。このため領主側も対応には穏便な対応を取らざるを得なかった。百姓一揆の闘争形態の分類として、代表越訴、惣百姓一揆、村方騒動、国訴などが挙げられる。
江戸時代後期の天明・天保年間には再び広域の一揆が多発した。武州騒動では無宿など「悪党」と呼ばれる集団に主導され、武器を携行し打ち壊しのみならず、強盗や放火など、百姓一揆の作法から逸脱した行為を行う形態の一揆も見られたとされる。ただし、武器を使用したという記録は幕府側にしか無く、保坂智は幕府が銃撃して鎮圧したことを正当化するためのものではないかと指摘している。幕末には世直し一揆が各地で発生している。
呉座勇一は当時一般の百姓が「武士は百姓の生活がきちんと成り立つように良い政治を行う義務がある」と考えており、政治参加や体制変革の意識自体がなかったため、百姓一揆は反体制運動ではないことを指摘している。與那覇潤は「政治は全てお上におまかせ、ただし増税だけは一切拒否」と表現している。
幕府では一揆を未然に防ぐため、盛況すぎる盆踊りを規制するなどしていた。
明治時代初期には新政府の政策に反対する徴兵令反対一揆や解放令反対一揆といった新政反対一揆、地租改正反対一揆が起こる。竹槍などで武装した一揆が発生するのはこの頃であり、明治6年の筑前竹槍一揆や地租引き下げに成功した際の「竹槍でドンと突き出す二分五厘」という川柳からも竹槍が主要な武器として使用されたことがわかる。鉄砲や刀も使用され、新政府の役人が殺害される例も見られる。これらの一揆は明治十年代には沈静化し、自由民権運動が活発化すると百姓一揆は古い型の運動であると否定的に見られるようになり、「竹槍筵旗」という言葉で表現されるようになった。
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