龍井三・一三運動(りゅうせいさんいちさんうんどう、簡体字:龙井3·13运动、朝鮮語:룡정3·13운동または용정3.13운동)は1919年3月13日、三・一運動の影響を受け、多くの朝鮮人が暮らす龍井村(現・延辺朝鮮族自治州竜井市)で起こった朝鮮独立運動のデモ集会である。龍井事件とも呼ばれた。韓国では、「三·一三反日示威運動」のほか、「龍井万歳運動」「間島三・一運動」などとも呼ばれている。
参加者は2万~3万人ともいわれる。日本陸軍省の当時の報告では6000名としている。
集会代表をつとめた牧師の金永学(김영학)が「独立宣言布告文」を朗読。集会の結束後、明東学校と正東学校の学生らを先頭に、太極旗を打ち振り、「朝鮮独立万歳」「大韓独立」「正義人道」の標語を掲げ、間島日本総領事館へ向かってデモ行進した。
発表された「独立宣言布告文」には金躍淵ら現地指導者17人(金躍淵 金迺範 具春光 金承文 朴道客 馬晋 裵享提 李夏永 姜丸禹 車義範 南仁相 池炳学 南世極 崔昌錫 申明德 金海鋑 方雨龍)の氏名が記されている。
軍閥の孟富徳(延吉駐軍団長)が130名余りの部隊を率いて鎮圧にあたり、デモ隊に向かって発砲。明東学校中学部の学生を含む19人(17人と紹介している記事もある)が死亡、48人が負傷、94人が逮捕された。
延辺人民出版社『朝鮮族簡史』では、「十三人が即死し、三十人の負傷者が出た(やがて六人が死亡)」としている。
3月17日、3000名余りが東山済昌医院で追悼式を開き、合成利合同墓地(합성리공동묘지)に犠牲者を埋葬、義士陵(14人の遺体を埋葬、他5人は遺族が別の場所に埋葬。13人を埋葬と説明しているものもある)を築く。
現地に建つ碑文には「殉難義士名単」として次の17人の名前が刻まれている。
朴尚進、鄭時益、孔徳洽、金泰均、金承禄、玄鳳律、李均弼、朴文浩、金興植、張学観、崔益善、玄尚魯、李裕周、車正龍、金鍾黙、蔡昌憲、金炳栄。
三・一運動と三・一三運動の影響を受け、3月13日から4月末までに延辺各地で74回にわたる独立運動やデモが繰り広げられ、参加人数は8万6670人に達した。
孟富徳の部隊による弾圧と発砲は、日本当局の強要と圧力によると、間島では事件当時から流布された。
現在も延辺では「日帝は何の武器も持たないデモの群衆を銃弾で鎮圧し、龍井の街は血に染まった」(李光平・ 三・一三運動記念事業会会長)、「日本の警察と地方軍隊が武装して血なまぐさい虐殺をひき起こした」(現地の碑文)など、弾圧を主謀したのは日本と強調している。
延辺における「正史」といえる延辺人民出版社『朝鮮族簡史』では、次のように記述してている。
地方官府は日本総領事館の命令の下に、この大会に対する態度を一変させた。日本領事館の意をうけた警官が会場を包囲し、七十数名の軍警が局子街河南橋を封鎖、延吉の大衆が竜井へ参加するのを阻止した。(中略)大会終了後民衆はデモに移り、日本総領事館へ向かい始めた。先頭には大砬子「明東中学」の生徒による「忠烈隊」が立った。この勢いに日本侵略者と駐屯していた孟富徳部隊は何ら手を出すすべがなかった。やがて大衆と衝突がおこり、大衆は素手で軍や警察と戦った。これに対して彼らは発泡、十三人が即死し、三十人の負傷者が出た(やがて六人が死亡)。
三・一三反日義士陵の入口に、2014年7月15日建立された石碑では、次のように紹介している。
1919年3月13日、延辺各地の3万名余の群衆が、龍井市に集まりデモ行進した。デモ隊が「日本野郎(イルボンノム)出ていけ」などスローガンを叫びながら、龍井日本総領事館へ向かっていた途中、日本傀儡軍が、デモ隊に射撃を加え、14名を射殺、15名を負傷、30名を逮捕し、中外を震撼させる虐殺事件を引き起こした。三・一三反日義士陵は、その時、犠牲となった14名の義士をたたえるため建立された。陵墓は、西側を向い2列で並んでおり、面積は約500㎡に達する。保護範囲は、碑石を中心に前10mから後ろ15mまで、左側20mから右側20mまで、建設制限地帯は、保護範囲の外10mまでとなっている。
韓国学中央研究院が運営する韓国民族文化大百科事典の「間島三一運動」の項目では、次のように記述している。
しかし、この計画を事前に探知した日本は、中国官憲と協議し、孟富德が率いる中国軍隊によって、独立万歳運動を阻止させた。群衆の勢いを削ぐことができないとわかった孟富德は、先頭の大韓独立旗を奪い、発砲命令を下し、無差別射撃を加え、18名が現場で死亡、30名余が負傷したまま解散した。
韓国学中央研究院が運営する韓国民族文化大百科事典の「三·一三反日示威運動」の項目では、次のように記述している。
一方、日本外務省と軍部でも間島の韓人デモを口実にして軍隊投入を画策しており、中国政府に圧力を加えた。東北軍閥、張作霖は、日帝の武力干渉を恐れるあまり、吉林督軍と省長に、韓人独立運動に対して強硬な措置をとるよう指示した。3月13日当日、中国軍警は、龍井市街を厳重に警戒していた。吉林陸軍の孟富德は、押し寄せる示威隊と対峙、結局、発砲令を下してしまった。銃声が鳴り、無数の群衆が倒れた。中国軍隊の無差別射撃により、現場で13名の示威参加者が犠牲となり、負傷者は30名を超えた。
一方、当時の日本陸軍省の報告では、「支那軍隊の発砲したるは日本領事の請求に依るものなりとの謡言を放ち盛んに人心を煽動する者あり」と、関与を否定している。
なお、文中にある「琿春事件」は、1920年の有名な琿春事件ではなく、1917 年9 月の守備隊派遣を指している。
間島龍井村に於ては3月8日以来主なる不逞鮮人等集会を為し這般各地に於ける運動に共鳴して大に気勢を挙けんことを企図し多数の宣言書を印刷する等準備中なりしか愈々13日正午之か宣言書を発表し同時に龍井村の東北約5丁の地点に於て学生其の他多衆集合し龍井村に向て行動し其の途中に於て附和雷同したる者を加へ約4000名に達し太極旗を打振り市場に押寄せたるを以て支那歩兵団長孟富徳は部下を率ひて出動し制止したるも応せす遂に支那軍隊発砲し群衆中に死者14負傷者約30を出し午後3時半漸く解散せるか死体及傷者は耶蘇教病院に収容せり尚右群衆中には英人宣教師1名参加しあるを現認せる者あり右に対し一部鮮人中には支那軍隊か群衆を銃殺したる件に付道尹に厳談し且吉林省及北京政府に電報交渉すへしと敦圉の者あり又支那軍隊の発泡したるは日本領事の請求に依るものなりとの謡言を放ち盛に人心を煽動する者あり 支那側に於ては14日朝局子街より応援歩兵60龍井村に到着警戒しあり是先支那官憲に於ては今回の韓族運動に関し同地方に於て騷擾するか如きことありは曩に琿春事件の如く日本軍隊か再ひ間島に進入するに至り12日既に道尹及孟団長連名にて韓国独立運動の暴挙を諭し若騷擾等のことあるに於いては断然軍警の威力を用ゆへし云々との諭告を発し居れり (大正八年三月十五日 朝憲機第一四〇号 独立運動ニ関スル件 (国外第一報)
「間島方面韓族独立運動に関する経過の概要」では、発砲に至るまでの経緯を、次のように説明している。
朝来龍井村居住鮮人は何れも門戸を封鎖し市中寂莫たり。支那兵及巡警は市内を従来する鮮人を誰何し警戒厳重を極めしか正午頃に至り約3、4000の鮮群衆潮の如く龍井村市街に侵入し来り。威声を揚け万歳を連唱しつつ檄文を配布し正義人道と記したる小旗を振り旧韓国旗を先頭に樹て市中を練り歩けり。之より先昨12日午後独立宣言代表者は北京外交部、上海英人牧師及吉林省長宛独立宣言運動に関し通牒的電報を発せり。後一時群衆約6000に達し予定の総領事館外側広場に輪形に集合し、独立宣言発表の為、首謀者4名は其中央にありて交々演説せり。此内、婦人1名あり。終りて韓国万歳を三唱し、斯くて群衆は市内に入り示威運動をなさんとする気勢凄ましく、一同歩を進むるや、支那兵之を抑止したるに、群衆は豪も之に応する色なく、却て投石抵抗したるより、支那兵は直に群衆に対し射撃し、死傷者若干を出せり。時に午後2時なり、然るに群衆は此射撃により、益興奮凄惨の状を極めて騒擾し、首謀者は現場に臨みたるに、孟軍団長に対して何故射撃したるやを難詰し、群衆之に和して猛り制止すへくも非らさるより、支那兵は再ひ射撃して之を威嚇せる結果、群衆は死14傷31(或は死11、傷18とも云う)を残して四散し各部落に遁入せり。
群衆の夛くは、支那官憲の行動は、日本官憲の使唆によるものとし、一派の鮮人は同夜銃器を整へ総領事館を襲ふへしと謡言を放ち状況頗る不穏なりし。(秘 朝特報第4号 大正8年3月15日 間島方面韓族独立運動に関する経過の概要)
「独立万歳」を叫び犠牲となったことから、義士陵は地元で万歳陵墓と呼ばれた。
義士陵のある合成利合同墓地はキリスト教徒の合同墓地だった。在間島日本総領事館の要員が墓参に訪れる人間を監視したことや、関東軍により満洲全土が占領され、満洲国が建国されたことなどから、龍井三・一三運動や義士陵も次第に人々の記憶から忘れられた。
また、中華人民共和国建国後の延辺では、反右派闘争や大躍進運動など次第に政治社会運動が激化、朝鮮族の文化や歴史、言語を強調した指導者や知識人が「地方民族主義者」「反動分子」「毒草」として長く迫害されたこともあり、間島における朝鮮独立運動の象徴的出来事ともいえる同事件が再評価されれることもなく、次第に荒廃、正確な場所がわからなくなっていた。
だが、1980年代に改革開放政策が進み、韓国との交流が盛んになる中で再び注目され、「龍井市重点文物保護単位」にも指定、延辺州政府は2001年、「三・一三運動」を抗日運動と公式に認定した。現在は毎年記念式典を開催、犠牲者を悼んでいる。
1986年12月、崔根甲氏は、龍井市建設局の局長を定年退職したのち、第二の人生、つまり我が民族の足跡を訪ねて発掘、復元して後世に伝え、あわせて歴史観光戦績地を整備し、龍井市の経済発展と振興に寄与しようと決意を固めていた。志ある人ならば集まるのが世の常。1989年9月、韓国・仁荷大学校の尹炳奭教授一行が龍井を訪問、龍井市対外経済文化交流会会長だった崔根甲氏を訪ねた。懇談中、三・一三反日闘争で受難した反日義士たちの遺骸を見つけ出すのが、歴史に責任を負うことだと意気投合した。(中略) 70年余にわたって雨風に洗われ、馬牛に踏みつけられた貧相な墓所を探し出した時、「自然と頭が下がり、痛みを禁じえなかった」と、崔根甲会長は、当時を回顧する。
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