西川 鶴三(にしかわ つるぞう、1910年2月19日 - 1970年2月5日)は、日本の照明技師である。牧野省三のマキノ・プロダクションにキャリアを始め、戦後、「東宝でもっとも速い男」と呼ばれ、森弘充、石井長四郎、岸田九一郎とともに「東宝照明部の四天王」と並び称された。本名は西川 光夫(にしかわ みつお)。
にしかわ つるぞう 西川 鶴三 | |||||
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本名 | 西川 光夫 (にしかわ みつお) | ||||
生年月日 | 1910年2月19日 | ||||
没年月日 | 1970年2月5日(59歳没) | ||||
出生地 | 日本 京都府京都市 | ||||
死没地 | 日本 東京都 | ||||
職業 | 照明技師 | ||||
ジャンル | 劇場用映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー) | ||||
活動期間 | 1925年 - 1969年 | ||||
配偶者 | 有 | ||||
著名な家族 | 西川紀之 (長男) 増田悦章 (甥) | ||||
主な作品 | |||||
『浪人街 第一話 美しき獲物』 『綴方教室』 『燃ゆる大空』 『武蔵野夫人』 『めし』 「次郎長三国志」シリーズ全9作 『独立愚連隊』 『殺人狂時代』 | |||||
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1910年(明治43年)2月19日、京都府京都市に生まれる。
1922年(大正11年)3月、旧制小学校を卒業、初等教育を終え、その後の学歴等は不明であるが、満15歳になる1925年(大正14年)には、同年6月に設立され、花園天授ヶ丘に御室撮影所を開いたマキノ・プロダクションに入社、照明部に配属される。『日本の映画人 - 日本映画の創造者たち』では入社を翌年の「大正15年」(1926年)としている。照明助手として働き、技師に昇進したのは、1928年(昭和3年)10月20日に公開された同世代のマキノ正博(のちのマキノ雅弘、1908年 - 1993年)の監督作『浪人街 第一話 美しき獲物』であった。このとき西川はまだ満18歳であった。同作は「キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・ワン」を受賞する等、高く評価される作品になった。同作における相棒である撮影技師も、若手の三木稔(のちの三木滋人、1902年 - 1968年)であり、マキノと三木とは、戦後に至るまでの長い仕事相手になる。このころ新調の背広を着て撮影所に現われた西川に片岡千恵蔵が「所内の池に飛び込んだら、二着買ってやる」と言ったところ、「一瞬のためらいもなく池に飛び込み、洋服二着をせしめた」のだという。
1929年(昭和4年)には、前年5月に同社から独立した片岡千恵蔵による片岡千恵蔵プロダクションに移籍している。同年2月15日に公開された『続万花地獄 完結篇』(監督稲垣浩・曾我正史、撮影石本秀雄・池戸豊)には、「西川光男」名義で岸田九一郎と共同で照明技師としてクレジットされ、翌3月16日に公開された『鴛鴦旅日記』(監督稲垣浩、撮影池戸豊)にも、「西川光夫」名義で照明技師としてクレジットされており、同年の早い時期に移籍した。同年7月25日、牧野省三が亡くなり、マキノ・プロダクションは、長男の正博を中心とした体制になるが、新体制において西川の名はすでに見られない。その後も、月形龍之介の月形プロダクション、日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)、新興キネマ(現在の東映京都撮影所)と転々としたが、この時期に手がけた作品は明らかではない。
1936年(昭和11年)、東京・砧のピー・シー・エル映画製作所(現在の東宝スタジオ)に移籍した。同社は、1937年(昭和12年)9月10日に他の3社と合併して東宝映画になり、同撮影所は東宝映画東京撮影所になった。同社での初期の代表作は、1938年(昭和13年)8月21日に公開された『綴方教室』(監督山本嘉次郎、主演高峰秀子)であり、同作での相棒である撮影技師は三村明(1901年 - 1985年)であった。1940年(昭和15年)9月25日公開の『燃ゆる大空』(監督阿部豊、主演長谷川一夫)では宮島義勇(1909年 - 1998年)、1941年(昭和16年)3月26日公開の『長谷川・ロッパの家光と彦左』(監督マキノ正博、主演長谷川一夫・古川緑波)では伊藤武夫(1907年 - 1978年)とも組んでいる。同作の直前、長谷川一夫・山田五十鈴主演の『昨日消えた男』(監督マキノ正博、撮影伊藤武夫)では、西川とおなじマキノ・プロダクション出身の照明技師の藤林甲(1908年 - 1979年)がメインであったが、西川も応援で参加したことをマキノ正博がのちに著書『映画渡世 地の巻』に描いている。
同年12月8日には太平洋戦争に突入したが、製作本数の少なくなった同社に残り、1943年(昭和18年)1月14日公開の『阿片戦争』(監督マキノ正博、撮影小原譲治)や、同年2月25日公開の『ハナ子さん』(監督マキノ正博、撮影木塚誠一)、1944年(昭和19年)3月9日公開の『加藤隼戦闘隊』(監督山本嘉次郎、撮影三村明)等を手がけ、終戦を迎えた。
戦後、1946年(昭和21年)には、下加茂の松竹京都撮影所に移籍、照明課長に就任した。戦争末期の1944年8月1日に同撮影所の所長にマキノ正博が就任しており、それとともに、企画部長に牧野満男(のちのマキノ光雄、1909年 - 1957年)、製作部長に辻吉朗(1892年 - 1946年)、脚本部長に比佐芳武(1904年 - 1981年)が就任、また、同時期には宮本信太郎(1910年 - 没年不詳)が編集課長に就任している。前所長の池田義信、前製作部長の大久保忠素といった松竹蒲田撮影所出身者たちはすでに本社に去っており、同年12月31日に公開された『満月城の歌合戦』(主演轟夕起子)では、監督にマキノ正博、撮影に三木滋人(かつての三木稔)、照明に西川、と『浪人街』時代のマキノ・プロダクションの座組みが下加茂で実現した。
翌1947年(昭和22年)には、東横映画が「大映第二撮影所」(かつての新興キネマ京都撮影所、現在の東映京都撮影所)で牧野満男らを中心に製作開始の準備に入り、西川も同社に移籍する。同社の製作第1作『こころ月の如く』は、監督に稲垣浩、撮影杉山公平、照明に西川、主演は上原謙と轟夕起子であり、同年9月16日公開に公開された。1948年(昭和23年)には、同社撮影所照明課長に就任した。マキノ正博が義兄の高村正次とともに宝塚映画製作所(のちの宝塚映像)内に同年5月に設立したCAC(シネマ・アーチスト・コーポレーション)が、設立第1作として長谷川一夫の新演伎座と提携製作した『幽霊暁に死す』(監督マキノ正博、脚本小国英雄)に撮影技師の三木滋人とともに照明技師として参加、同作は同年10月12日に東宝の配給で公開されている。CACは翌1949年5月31日に公開された『今日われ恋愛す』(監督島耕二、主演轟夕起子)を最後に解散するが、西川は全作に関わった。同年には、大映を退社した片岡千恵蔵が牧野満男の協力により設立した連合映画作家協会の第1回作品『白虎』(監督松田定次、撮影伊藤武夫)に参加、同作は同年6月20日に松竹の配給で公開されたが、片岡は、片岡と同行した赤木春恵らとともに東横映画に移籍している。
片岡入社以降の東横映画で、『獄門島』(監督松田定次、1949年11月20日公開)、『獄門島 解明篇』(同、同年12月5日公開)、『にっぽんGメン 第二話 難船崎の血闘』(同、1950年1月3日公開)、『俺は用心棒』(監督稲垣浩、同年2月19日公開)等の片岡の主演作を手がけたが、西川は東横を退社、長谷川一夫の新演伎座が鈴木郁三の東日興業と提携して製作する『傷だらけの男』(監督マキノ正博、撮影谷口政勝)に参加、同作は東宝が配給し、1950年(昭和25年)4月9日に公開された。
同年、ふたたび東宝に戻り、東宝撮影所の照明技師として契約した。西川の東宝復帰第1作は、笠置シヅ子・柳家金語楼の主演作『大岡政談 将軍は夜踊る』(監督丸根賛太郎、撮影完倉泰一)、同作は同年5月27日に公開された。1951年(昭和26年)には、溝口健二が監督した『武蔵野夫人』(主演田中絹代、同年9月14日公開)や成瀬巳喜男が監督した『めし』(主演上原謙・原節子、同年11月23日公開)で撮影技師玉井正夫(1908年 - 1997年)と組み、いずれも西川の代表作となる。
1952年(昭和27年)4月17日に公開された『浮雲日記』(監督マキノ雅弘、撮影山崎一雄)には西川も参加したが、同作に出演した第1期東宝ニューフェイスの鳳弓子とマキノが結婚する際に「雅弘はん!あんたの奥さんが決ったんや!」と言い、マキノが「えッ、誰れや」と問うと「鳳弓子はんや…」と答えて引き合わせたのが西川であった。公私にわたるつきあいの深いマキノの結婚を経て、同年12月4日に公開されたマキノの代表作となる『次郎長三国志 第一部 次郎長売出す』に参加、撮影技師は山田一夫(1919年 - 2006年)と飯村正(1918年 - 2004年)とが交代したが、照明技師は西川ひとりが同シリーズ全9作に参加した。
この時代の西川について、当時助監督であった丸林久信(1917年 - 1999年)が、のちに連載の一章のうち半分を割いて記述している。「相撲取りぐらいの巨体の持主であり、映画界で彼の名を知らない者はもぐりといわれるほど、名の通った名物男、ライトマン中のライトマン」「一見、ひと当たりのよさそうな好人物にみえるが、それがくせもの、ひとたび臍が曲がるとどこまでも曲がって、手に負えぬ癇癪持ちに変貌する」と丸林は描く。丸林は「鶴さん」、その後輩の高瀬昌弘(1931年 - )は「鶴やん」という西川の愛称をそれぞれの著作で紹介している。『特急にっぽん』や『天国と地獄』の森弘充(1922年 - 1974年)、『野良犬』や『山の音』の石井長四郎(1918年 - 1983年)、『生きものの記録』や『蜘蛛巣城』の岸田九一郎(1907年 - 1996年)とともに「東宝照明部の四天王」と並び称されたのもこの時代であり、そのなかでも「東宝でもっとも速い男」と呼ばれた。その速さの秘訣としては、高瀬昌弘が「早くというより少量のライトしか使わずに見事な効果を上げた」と指摘している。西川のその手法の源泉について、高瀬は「千恵プロ当時、他の撮影所の五分の一という四台のライトしか、使えぬ為の工夫からであったのかも知れない」と推察する。戦前・戦中の東宝映画に所属した前述の照明技師の藤林甲は、新東宝を経て日活に移っており、この時代の東宝にはいなかった。
映画界への40年の貢献を記念し、1965年(昭和40年)12月1日、日本映画製作者連盟が主催する第10回「映画の日」永年勤続者表彰を受ける。このときに『キネマ旬報』に西川が寄せた小文には、自らを電球に譬え、「古くなつた電球は、そろそろ新しく取り替える時期かもしれないが、私の電球はまだまだ使えるつもりでいる」と記している。岡本喜八の代表作のひとつである『殺人狂時代』を手がけたのはその翌年末であり、満40年を迎えての現役宣言以降、4年にわたり14本の作品を手がけた。
1969年(昭和44年)11月1日には、西川が照明を手がけた『水戸黄門漫遊記』(監督千葉泰樹、主演森繁久彌)が公開されたが、そのわずか3か月後、1970年(昭和45年)2月5日、死去した。満59歳没。おもな弟子には中山治雄がいる。東宝のプロデューサーであった西川紀之(1934年 - )は長男、東映京都撮影所照明部の重鎮、増田悦章(1931年 - )は甥である。
特筆以外すべて「照明」である。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した。
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