蔣 緯国(しょう いこく、1916年10月6日 - 1997年9月22日)は、中華民国国民革命軍の軍人。幼名を建鎬、号を念堂と称す。
蔣 緯国 | |
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プロフィール | |
出生: | 1916年10月6日 |
死去: | 1997年9月22日 |
出身地: | 日本 東京府東京市 |
職業: | 政治家 |
死没地: | 中華民国 台北市北投区 (台北栄民総医院) |
各種表記 | |
繁体字: | 蔣緯國 |
簡体字: | 蔣纬国 |
拼音: | Jiǎng Wěiguó |
注音二式: | Jiǎng Wěiguó |
和名表記: | しょう いこく |
発音転記: | ジャン ウェイグオ |
蔣緯国は蔣介石の次男である。本人は蔣介石の養子であることを否定していたが、晩年に著した自伝『千山独行:蔣緯国的人生之旅』の中で、生父は戴季陶であり、母親は日本で看護師をしていた重松金子であることを認めている。
東呉大学経済学科に学び、中独合作と呼ばれる中国国民党とナチス党率いるドイツ国の提携が模索されるなか、1936年にドイツへ赴く。その翌年にはドイツ国防軍に入隊、ドイツ陸軍ミュンヘン士官学校に入学している。
同士官学校卒業後もドイツ軍の軍務に就き続け、第98山岳猟兵連隊で山岳戦の教程を修了して、山岳猟兵の証であるエーデルヴァイス章を授与された。第二次世界大戦初期、ドイツ陸軍士官候補生として装甲部隊に配属され、オーストリア併合に従軍した。ポーランド侵攻にもオブザーバーとして従軍する予定であったが、その途上で立ち寄った在ベルリン中国大使館経由で受けた指示によって、アメリカ合衆国で軍事教育を続けることになった。アメリカではいったん陸軍航空隊士官学校へ入校したが、ドイツでの経験が考慮されたことにより、フォートノックスの戦車部隊へ移され、同地ではドイツ軍の戦術等について講義を行っている。その後日独伊三国同盟構想が強まると中国に帰国、その後は中華民国国民革命軍に入隊し、日中戦争及び国共内戦に参加している。国民革命軍では主に装甲部隊を指揮し、1944年に少佐、1945年に28歳で中佐となった。
中国国民党軍が国共内戦に敗れて台湾に渡った後、1963年に明徳小組(ドイツ語: Ming-teh-Gruppe)と呼ばれる西ドイツのドイツ連邦軍のオスカー・ムンツェル少将率いる軍事顧問団が設立され、蔣緯国がその連絡役を務めた。1964年に湖口兵変が発生すると蔣緯国への軍権授与は停止された。同年、三軍将校の戦略教育の準備に着手、1969年には三軍大学に戦略教育を目的とした戦争学院を設立する。1975年に陸軍二級上将に昇格し、三軍大学校長に就任、1980年は聯合後勤司令部(後方支援司令部)総司令に着任する。
1986年の退役後は国家安全会議秘書長に就任した。1990年に国民大会で総統選挙が行われた際、中国国民党では当初林洋港を総統候補、蔣緯国を副総統候補にする動きがあった。だが、最終的に両者は総統選挙立候補を断念し、李登輝が総統候補、李元簇が副総統候補として擁立されて当選した。
1993年には総統府資政(顧問)に任命されたが、同年10月にアメリカの中国共産党系中国語紙僑報で中華人民共和国の鄧小平が唱える中国式社会主義(中国特色社会主義)を支持すると述べたため、台湾世論から批判を浴びた。また、李登輝総統が台湾独立路線を推進するにつれてそれを批判するようになり、許歴農らの設立した新同盟会に参加して中国統一を主張する統派の論客になった。
蔣緯国は民間でも活躍し、中華戦略学会の創設を初め、中独文化経済学会理事長、中華民国サッカー協会理事長、静心小学会長等を歴任した。
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