茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日 - 1988年(昭和63年)11月9日)は、日本の物理学者。第17代東京大学総長(1957年 - 1963年)。
茅誠司 | |
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1961年頃 | |
生誕 | 1898年12月21日 日本神奈川県中津村(現・愛川町) |
死没 | 1988年11月9日(89歳没) 日本東京都 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 金属物理学 |
研究機関 | 東京大学工学部 |
出身校 | 東京高等工業学校電気科 東北帝国大学理学部 |
主な受賞歴 | 学士院賞(1942) 文化勲章受章(1964) |
補足 | |
プロジェクト:人物伝 |
神奈川県生まれ。旧制厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科を経て、東北帝国大学理学部卒業。伊登子夫人は天文学者・木村栄の長女。長男は工学者の茅陽一、次男は化学者の茅幸二(理化学研究所所長)。戦後間もない頃から吉田茂首相の私的なブレーンとしての「昼めし会」のメンバーであり、傾斜生産方式の構想の場に居たことが政治学者五百旗頭真(戦後政治を専門とする)によって記述されるなど社会的活動も多大である。
専門は、強磁性結晶体の研究。しかし、茅が師事していた本多光太郎は、茅の考え方に否定的だった。
日本学術会議会長として日本の南極観測参加に尽力する。 また、日本の原子力研究の創始に当たっては、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を伏見康治とともに提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。
東京大学総長退任時の卒業式告辞で述べた小さな親切運動は社会現象となり、社団法人の設立につながった。茅は同法人の初代代表として23年間在職した。同法人は社会全体に社会道徳や親切を広める活動団体の一つとして続いている。
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