福井 英一郎(ふくい えいいちろう、1905年9月9日 - 2000年11月3日)は、日本の気候学者・自然地理学者。東京教育大学教授を務め、門下から多数の気候学者を輩出した「日本の気候学の父」。
福岡県福岡市に生まれ育ち、旧制福岡高等学校を経て、1928年に東京帝国大学理学部地理学科を卒業した。以降、日本大学、立正大学、東京府立第一中学校(東京都立日比谷高等学校の前身)などで教鞭を執り、1930年4月に東京文理科大学の助手となった。1933年には、「日本気候論」により、東京帝国大学から理学博士の学位を取得した。
1939年1月に、大日本帝国陸軍気象部嘱託を兼ねるようになり、4月には東京文理科大学専任講師に昇任した。
第二次世界大戦中の1942年7月から、1948年まで、気象技師として中央気象台(後の気象庁)に勤務し、この間に、中国・北京の華北観象台の副台長などを経て、福岡管区気象台調査課長となった。中央気象台では、岡田武松、藤原咲平の薫陶を受け、北京への赴任も両者の推薦によるものであったという。
1948年8月、東京高等師範学校教授に転じ、1949年8月には新制の東京教育大学理学部教授を兼任し、1950年に東京教育大学教授兼東京高等師範学校教授となって、以降、数多くの後進の指導にあたった。1969年に東京教育大学を定年退官した後は、東京成徳短期大学教授などを歴任した。
福井は、日本における「気候学の研究・教育の開拓者であり、指導者であった」、「独りで発展を支えたといっても過言ではない」と評されている。
1938年には、日本人による体系的な気候学の研究書の先駆とされる『気候学』を刊行し、その後も版を重ねた同書は、日本のみならず中国や韓国の気候学研究者にも広く共有された。
福井は、ケッペンの気候区分なども踏まえた上で、日本を月平均気温による3区分,降水量と季節性を踏まえた10中気候区,降水の特徴や風系などを加味した36小気候区に区分する、経験的気候区分を提唱した。1977年に福井が編者となり、門下生を動員して英文でまとめられた『The Climate of Japan』は、日本の気候誌について国外の研究者の必読書とされる。
以上の他、『福井英一郎気候学論文集』が1969年に私家版でまとめられている。
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