石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29日 - 1981年〈昭和56年〉9月16日)は、日本の内務・建設官僚、政治家。正三位・勲一等瑞宝章。
石破 二朗 いしば じろう | |
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生年月日 | 1908年7月29日 |
出生地 | 日本 鳥取県八頭郡大御門村大字殿 (のち郡家町大字殿、現八頭町郡家殿) |
没年月日 | 1981年9月16日(73歳没) |
死没地 | 日本 鳥取県鳥取市 |
出身校 | 東京帝国大学法学部法律学科卒業 |
前職 | 内務・建設官僚 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 正三位 勲一等瑞宝章 法学士(東京帝国大学・1932年) |
親族 | 父・石破市造(大御門村長) 長男・石破茂(衆議院議員) |
内閣 | 鈴木善幸内閣 |
在任期間 | 1980年7月17日 - 1980年12月17日 |
公選第4-7代 鳥取県知事 | |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1958年12月3日 - 1974年2月22日 |
選挙区 | 鳥取県選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1974年7月8日 - 1981年9月16日 |
参議院議員(2期)、鳥取県知事(第39代)。鈴木善幸内閣において、自治大臣(第28代)兼国家公安委員会委員長(第38代)を務めた。
田中角栄元首相は友人である。安田貞栄境港市長(第3代)が石破に「あなたは元気である限り、本県県政を担当願うことが県民のためになると思う。それほどあなたを高くかっておるが東京では(自民党の)田中派に属しておることが釈然としませんね」と言った時「君は田中という人を知らんからだ。実は自分が初めて鳥取県知事に立候補して現職知事(遠藤茂)との一騎討ちのきびしい選挙を戦い当落の決まる夜娘2人が東京の家でラジオの報道をはらはらした心持ちで聞いておるときに田中さんは心配だろうと娘たちと一緒に炬燵にあたって一喜一憂してくれたのだ。当選がきまったら「これでお二人とも安心だね」と言って帰ったそうだ。これに心を打たれるではないか。付け焼刃でできることではない」と述べた。
1955年(昭和30年)に自由党時代の田中から東京都知事選挙に出馬するように請われたが、「東京都知事にはならない、鳥取県知事に請われればなる意志がある」と答えた。田中は「何故日本で一番小さい鳥取県の知事を望むのだ」とたずねると「私は鳥取県人である、鳥取に生まれ育ち、そして死ぬのである。小さくとも我が県は鳥取県である」と明快に答えた。田中は「君が郷土を思う至情に打たれた」と述べている。
公職 | ||
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先代 後藤田正晴 | 自治大臣 第28代:1980年 | 次代 安孫子藤吉 |
先代 後藤田正晴 | 国家公安委員会委員長 第38代:1980年 | 次代 安孫子藤吉 |
先代 遠藤茂 | 鳥取県知事 公選第4 - 7代:1958年 - 1974年 | 次代 平林鴻三 |
議会 | ||
先代 菅野儀作 | 参議院外務委員長 1979年 - 1980年 | 次代 秦野章 |
官職 | ||
先代 稲浦鹿蔵 | 建設事務次官 第4代:1955年 - 1958年 | 次代 米田正文 |
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