文化の大火(ぶんかのたいか)とは文化3年3月4日(1806年4月22日)に江戸で発生した大火。
明暦の大火、明和の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。丙寅の年に出火したため、丙寅の大火とも呼ばれる。通称車町火事・牛町火事。
出火元は芝・車町(現在の港区高輪2丁目)の材木座付近。午前10時頃に発生した火は、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼。折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、そこから京橋・日本橋の殆どを焼失。更に火勢は止むことなく、神田、浅草方面まで燃え広がった。
翌5日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に530町に及び、焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われる。このため町奉行所では、被災者のために江戸8か所に御救小屋を建て炊き出しを始め、11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えた。
この大火のため大相撲の文化3年2月場所は5日目で中断に追い込まれている。
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