建州女直(けんしゅうじょちょく)は、明代末期から清初期にわたって遼東(旧満洲南部にあたる)の山岳地帯に居住していた女直(女真)の集団を指す。満洲語では、マンジュ・グルン(ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠᡤᡠᡵᡠᠨ, manju gurun、「マンジュ国」)。5部に分かれ、西方の海西女直や東北方の野人女直と対峙・鼎立した。明末にヌルハチによって統一され、後の後金、清の基礎となった。
明の第3代皇帝である永楽帝は中国東北部へ出兵、黒竜江付近まで進出して女真族を支配下に置いた。この時、明朝はこの地を招撫支配するため建州衛、建州左衛、建州右衛を設置、女真族を衛所制に組み込んだ。女真族は衛所を通じて明朝と交易をおこなう中で社会的、文化的な影響を受け漢化していった。16世紀後半に明との関係が悪化すると、三衛の混乱に乗じて事実上独立し、有力者の率いる「アイマン」(ᠠᡳ᠌ᠮᠠᠨ, aiman、部)を形成、建州五部が出現した。
遼東一帯を統括した明の武将李成梁は、勢力を強める建州女直を海西女直と争わせる方針をとった。この中で彼は、スクスフ部のニカンワイランとヌルハチを支援し、後の1587年にヌルハチに建州女直を統一させた。この結果、マンジュ国を建設したヌルハチは、明朝が豊臣秀吉の朝鮮出兵への対応に追われている隙に海西女直を撃破、女真族を統一して後金を建国するに至った。
建州女直は満洲と白山に分かれていた。
満洲は、スクスフ(ᠰᡠᡴ᠋ᠰᡠᡥᡠ, suksuhu、蘇克素滸)・フネヘ(ᡥᡠᠨᡝᡥᡝ, hunehe、渾河)・ワンギャ(ᠸᠠᡢᡤᡳᠶᠠ, wanggiya、完顔)・Template:董鄂部(ᡩᠣᡢᡤᠣ, donggo、董鄂)・ジェチェン(ᠵᡝᠴᡝᠨ, jecen、哲陳)の五部に分けられ、建州五部とも呼ばれる。
白山(šanggiyan alin)はジュシェリ(ᠵᡠᡧᡝᡵᡳ, jušeri、朱舎里)・ネイェン(ᠨᡝᠶᡝᠨ, neyen、訥殷)・鴨緑江(yalu giyang)の三部に分けられる。
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