大田部 身万呂(おおたべ みまろ、生没年不詳)は、平安時代の武蔵国児玉郡草田郷(現・埼玉県本庄市栄3丁目から西富田付近)の戸主。
おおたべ みまろ 大田部 身万呂 | |
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生誕 | 大田部 身万呂 不詳 日本・武蔵国児玉郡草田郷 |
死没 | 不詳 日本・武蔵国児玉郡草田郷 |
国籍 | 日本 |
職業 | 開墾者 |
著名な実績 | 武蔵国児玉郡草田郷の開墾。 |
1986年、本庄市栄3丁目に所在する薬師元屋舗遺跡の発掘調査中に出土した紡錘車(ほうすいしゃ)に刻まれていた人物の名が大田部身万呂である。紡錘車には、「武蔵国児玉郡草田郷戸主大田部身万呂」と記されていた。大田部氏は朝廷の新田開発集団が基の氏族であり、身万呂はその末裔と考えられる。つまり、有道氏(後の児玉氏)が移住する以前から児玉郡を開墾していた氏族である(児玉氏が郡南部から北部へ広がったのに対し、大田部氏は郡北部を開発していたものと見られる)。
『和名類聚抄』(10世紀中頃に成立)の通行本文である元和古活字版の記録によると、児玉郡には「黄田郷」があったと記述されている。その発音から現在の児玉町吉田林(きたばやし)の周辺が比定地とされてきた。ところが、当遺跡から出土したこの紡錘車の記述によって、通行の『和名類聚抄』の記述が誤写である事が判明し、「黄田郷」は存在しない事が判った。ところが、『和名類聚抄』の平安時代写本である高山寺本では、この部分は黄田郷でなく、正しく草田郷となっている。それらの結果を総合すると、草田郷の所在地は現在の本庄市栄3丁目から西富田の付近に存在したと言う事も推定できる。平安時代の出土物(遺物)によって、『倭名類聚抄』の古写本の本文が正しいことが判明した珍しい事例であり、考古学的にも重要な資料である。
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