本項で解説する十三重石塔(じゅうさんじゅうせきとう)は、京都府宇治市宇治塔川(京都府立宇治公園塔の島)にあって「浮島」「浮舟ノ島」など と呼ばれてきた人工島の一つである「塔の島」に所在する石塔である。「十三重石塔」とは、「石造りで十三重構造の層塔」もしくは「石造りで十三層構造の塔婆」を意味する。アジア各地に同様の塔が数多く存在し、日本国内だけでもかなりの数に上るため、他の同種の石塔と区別して浮島十三重石塔(うきしま じゅうさんじゅうせきとう)ともいう。塔高 約15.2メートルの石造・十三重の層塔 で、石塔婆(石造供養塔)。
1953年(昭和28年)3月31日、国の重要文化財に指定された(指定名称:浮島十三重塔)。2003年(平成15年)3月14日には、塔内納置品が京都府指定有形文化財となった(指定名称:浮島十三重塔納置品)。
浮島十三重石塔は、現存する近世以前の石塔としては日本最大(塔高15.200メートル)である。
なお、観光案内などで浮島十三重石塔を「日本最古の石塔」とするものがあるが、これは事実ではない。石造の層塔では、奈良時代前期の石塔寺三重塔(伝・阿育王塔。滋賀県東近江市石塔町所在)が日本最古である。石造の十三重層塔としては、奈良市長谷町の塔の森十三重石塔(奈良時代後期)が、破損は甚だしいが現存する。
奈良の勝宝山西大寺再興などで知られる僧・叡尊は、鎌倉時代後期にあたる弘安7年(1284年)、宇治橋の大掛かりな修造を手がけた。橋が完成する弘安9年(1286年)に合わせて、宇治川の川中島として大橋の南方に舟を模した形の人工島を築き、放生会を修する祈祷道場とした。そして、宇治川で漁撈される魚霊の供養と橋の安全の祈念を旨に、同年11月19日(ユリウス暦換算:1286年12月6日)、島の中央に大塔婆を造立した。
大塔の建っていた島は、頻発する宇治川の氾濫にもよく耐え、激流に浚われることがなかったため、いつの頃からか島を指して「浮島」「浮舟ノ島」などと呼ぶようなったようである。大塔のほうは、さすがに氾濫の被害をたびたび受けて、倒伏と修復・再興を繰り返してきた。しかしそれも、江戸時代後期の宝暦6年(1756年)に起こった未曾有の大氾濫で倒伏した後は、川底の泥砂に深く埋もれてしまい、再興されることはなくなってしまった。
1905年(明治38年)に復興が発願されると、1907年(明治40年)、発掘作業が始められ、間もなくして九重目の笠石と相輪以外は発見され、明くる1908年(明治41年)8月21日、九重目の笠石と相輪は新たに制作して再建された。その後、元々の九重目の笠石と相輪が発見されたが、それらは興聖寺の庭園に移設された。
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