勝見 正義(かつみ まさよし、1903年1月1日 - 1961年9月8日)は、日本の映画監督、脚本家である。別名勝見 雅之(かつみ まさゆき)。
かつみ まさよし 勝見 正義 | |
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別名義 | 勝見 雅之 (かつみ まさゆき) |
生年月日 | 1903年1月1日 |
没年月日 | 1961年9月8日(58歳没) |
出生地 | 日本 北海道 |
職業 | 映画監督、脚本家 |
ジャンル | 劇映画(時代劇・現代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1925年 - 1937年 |
配偶者 | 某女優 離婚 西島某 |
著名な家族 | 勝見庸太郎(兄) 佐久間妙子(妻の妹) 花川環(兄嫁) |
主な作品 | |
『恋の丸橋』 『暁の市街戦』 |
1903年(明治36年)1月1日、北海道で生まれる。10歳上の兄に俳優の勝見庸太郎(1893年 - 1962年)がいる。
東京に移り、旧制・早稲田第二高等学院(現在の早稲田大学高等学院)に入学するも、中途退学し、兄が所属する松竹蒲田撮影所の監督部に入社する。池田義信に師事して脚本・演出を学び、その後、京都に移り、牧野省三のマキノ映画製作所等持院撮影所に移籍、沼田紅緑に師事する。1924年(大正13年)7月、同社は東亜キネマに吸収されるが、勝見は継続的に同社の等持院撮影所に入社する。1925年(大正14年)6月19日に公開された沼田監督の『落花の舞 後篇』で助監督としてクレジットされた記録が残っている。同年同月、牧野は東亜キネマを退社し、新たに御室撮影所を設け新会社マキノ・プロダクションを設立すると、勝見もこれに参加する。同年8月28日には、岡本綺堂の原作を中島宝三が脚色した『白虎隊』が公開されるが、これは、牧野の総監督のもとに勝見が演出したものであり、これが認められ、自ら執筆した原案を西条照太郎が脚本化した『目明し佐吉の死』を「第一回監督作」として同年10月4日に公開、本格的に監督として一本立ちした。以降、多く西条脚本作の演出を手がけた。
1926年(大正15年)の初め、兄・庸太郎が松竹キネマを退社、勝見は兄に対し、マキノと提携して勝見庸太郎プロダクションを設立することを勧め、これが実現する。同年11月14日には、勝見庸太郎プロダクション第一回作品として兄が監督・主演、勝見が監督補としてクレジットされた『恋の丸橋』が公開される。以降、兄が監督を兼務しないほとんどの作品を勝見が監督した。1929年(昭和4年)7月25日には、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、勝見は、マキノ正博、金森万象、二川文太郎、吉野二郎、阪田重則らとともに「監督」に名を連ねた。勝見が監督し、1930年(昭和5年)5月16日に公開された『光を求めて』は、ジョージ・フィッツモーリス監督の『文明の破壊』(1922年)を熊谷久弥(熊谷草彌)が日本を舞台に翻案したものであり、もともとの舞台戯曲を書いたウィラード・マックが「原作」にクレジットされている。
その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、同年12月、賃金未払いが発生してストライキが起き、翌1931年(昭和6年)1月、マキノ正博に代って二川文太郎が委員長となった従業員組合の副委員長に、金森とともに就任している。同年同月、製作が再開されたが、同年2月には御室撮影所が全焼、同年3月末には解散を余儀なくされた。勝見は、最後まで同社に所属して同社の製作をささえ、同年3月13日に公開された『紅蝙蝠』が、同社での最後の監督作であった。同社在籍中に、同社所属の女優と結婚歴があったと岸松雄が記している。同社解散後、月形龍之介がトーキーを製作するために奈良に撮影所を開いた第二次月形プロダクションで、レックス・イングラム監督の『スカラムーシュ』(1923年)を翻案した『暁の市街戦』を監督し、同作は1932年(昭和7年)4月7日に公開されている。同作では、写真化学研究所(のちのP.C.L.映画製作所、現在の東宝スタジオ)のシステムを採用、日本での最初期のオール・トーキーを実現した。
1934年(昭和9年)には、西条照太郎の紹介で、東京の大都映画に入社する。同年3月29日公開された『名金 奇襲浅間山麓の巻』(主演阿部九州男)が記録に残る入社第1作である。このころ、同社の女優佐久間妙子(本名・西島静子)の姉と結婚している。1935年(昭和10年)2月7日に公開された『密使紫頭巾 前篇』(主演琴糸路)を最後に同社を退社した。1936年(昭和11年)5月に兵庫県西宮市甲陽園に設立された甲陽映画に入社し、「勝見 雅之」の名で3作を撮っている。1937年(昭和12年)の同社解散後は、時期は不明であるが、中国大陸を放浪したとされる。
第二次世界大戦後の作品歴等、詳細な消息は伝えられておらず、岸松雄は「アルコール中毒」だったと表現している。戦後16年経った1961年(昭和36年)9月8日、病院で死去した。満58歳没。
翌1962年(昭和37年)9月1日には、兄の勝見庸太郎が満68歳で死去している。妻(佐久間の姉)との間には4男1女をもうけ、妻は、勝見と同じくマキノ出身で甲陽映画にも在籍した映画監督高見貞衛の妻・那智恵美子(出生名・奥山蓮子、別名・若草美智子、元女優)と仲がよく、戦後はいずれも東京に在住し交流したとのことである。2005年(平成17年)にイタリアで行われた第24回ポルデノーネ無声映画祭で、現存する1作『仇討奇譚 勝鬨』が上映された。
クレジットは特筆以外すべて「監督」である。公開日の右側には監督を含む監督以外のクレジットがなされた場合の職名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
特筆以外すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、特筆以外はサイレントである。
製作は「月形プロダクション」、配給は「欧米映画社」、トーキーである。
すべて製作・配給は「大都映画」、特筆以外はサイレントである。
すべて製作は「甲陽映画」、配給は「マキノトーキー製作所」、すべて「勝見雅之」名義、特筆以外はトーキーである。
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