東経135度46分18.25秒 / 北緯35.0090722度 東経135.7717361度 / 35.0090722; 135.7717361
最初に橋が架けられた時期は室町時代といわれている。天正17年(1589年)、豊臣秀吉の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。
江戸時代には五街道のひとつ東海道五十三次の西の起点となる。そのため幕府直轄の公儀橋に位置付けられた。その後、元禄、明治、大正の各時代に橋の架け替えが行われた。
現在の橋本体は1950年(昭和25年)4月に完成した鋼単純H型橋である。橋長73m、幅員16.7m。木製欄干は2度更新されている。1度目は1974年(昭和49年)であり、国産木材の価格高騰によりタイワンヒノキが利用された。2度目は2022年(令和4年)秋から2024年(令和6年)にかけて行われた。
2024年(令和6年)1月に完了した補修・修景工事では、欄干のほか、歩道舗装や防護柵も更新された。欄干の木材は京都市内産の「みやこ杣木」で、京都市左京区鞍馬や右京区京北産のヒノキ材が用いられた。 なお、欄干の擬宝珠は再利用された。また、歩道舗装は銀鼠色の市松模様、防護柵は麻の葉模様で柱は檜皮色となった。更新費用は欄干の取り換えだけで3億円、歩道の整備を含めると4億円が必要と見積もられ、京都市がふるさと納税等で寄付を募った結果、計3億7000万円が寄せられた。
橋の名は、三条通と鴨川左岸(東側)を走る川端通の交差点名にもなっている。
江戸時代に出版された『東海道中膝栗毛』の主役である弥次郎兵衛と喜多八の像が、1994年(平成6年)に三条小橋商店街振興組合により設置された。
最初の造営は室町時代といわれている。その後、戦国時代末期の天正17年(1589年)に北条氏征伐の議が決まった直後に、豊臣秀吉が増田長盛に命じて三条大橋の修復・架橋させた。そのときの規模は、長さ64間4尺(126.0メートル)、幅は3間5尺5寸(7.5メートル)あり、擬宝珠に残る銘によれば、礎石は5尋(9.0メートル)の深さまで入れて、橋柱は63本全てを石柱としたもので、「石柱の橋は濫觴(らんしょう)なり」とある。
年代順に記述する。
近隣の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた。ここで処刑・晒し首にされた著名な人物を挙げる。
三条大橋東側(京阪側)には、鴨川左岸の環境整備および護岸改修を行った治水整備事業の記念碑がある。これは、平安遷都1200年を契機に着手した「京の川づくり」事業の一環として1992年(平成4年)より事業化され、三条大橋から七条大橋間が「花の回廊」として整備されたことを記念するものである。なお、同事業はのちに「水辺の回廊整備・鴨川創造プラン」に引き継がれ、継続的に事業が行われている。
詳細は、各駅の項目および三条京阪#バスを参照。
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