三保半島(みほはんとう)は、静岡県静岡市東部に位置する半島。折戸湾を包み込むように駿河湾に張り出し、3つの砂嘴が重なった複合砂嘴である。名勝「三保の松原」と、謡曲「羽衣」の羽衣伝説として全国的に知られる。
日本の世界遺産として『富士山-信仰の対象と芸術の源泉』が2013年に世界文化遺産に登録され、その構成要素に三保松原が組み込まれたことを契機として、2019年4月1日に『三保半島地区』として静岡市の景観計画重点地区に指定された。
三保半島は長さ約4キロメートル、幅約1キロメートルの地域で、面積640ヘクタールを有する。
半島は外洋側に高く、内湾側に低い地形を示す3つの砂嘴からなる複合砂嘴であり、内湾側から第1砂嘴・第2砂嘴・第3砂嘴に区分されている。三保半島は駿河湾西岸域に卓越する南西-北東方向の漂砂によって形成され、有度山(有度丘陵)を構成する根古屋層を基盤とする。半島全域が砂礫によって構成され、土は存在せず、水稲耕作は不可能である。
三保半島沖大陸棚の海底地形は、南西から北東に交互にならぶ海脚地形と海脚間の海底谷により特徴づけられ、それらは南から南駒越海底谷、駒越海脚、北駒越海底谷、羽衣海脚、羽衣海底谷、吹合ノ岬海脚と呼ばれる。半島沖の海底谷は南西に位置するほど谷頭水深が深く、北東の羽衣海底谷の谷頭は、ほぼ海岸線に達する。
黒潮の影響と、有度山東南に位置し冬の季節風の影響が少ないことから、静岡の中でも特に暖かい特殊暖地帯で、南九州の気候に匹敵する。
三保半島の形成過程に関して、かつては静岡大学の土隆一が、「縄文海進は、有度山南側の海蝕崖を現在の位置まで後退させ、沿岸流で東へ運ばれた砂礫は、まず分岐砂嘴のもっとも内側の鉤をつくり、ついで順に外側の2つの鉤をつくっていった」と説明していた。他方で、柴 (2014)は、この説は現在でも三保半島のおいたちを説明するものとして流布しているが、正しくないとしている。その理由として柴は、三保沖の沿岸流は沖合を北東から南西に流れており、礫が運搬される方向とは正反対であること、そもそも礫は水に浮かず、沖合の表層を流れる沿岸流で運ばれることがないという反例を挙げている。実際、三保や久能海岸付近の海底では、礫はふつう水深6メートルより深い海底に分布しないという。
柴 (2014)は、三保半島を形成した堆積物は、有度山の南側斜面の海岸浸食で供給されたものではなく、安倍川から供給されたものであるとする。礫は、沿岸流ではなく、海岸に打ちつける砕波の力によって、波打ちぎわを転がりながら北東に移動して海岸に運ばれたものである。三保海岸の礫の約96パーセントは硬い砂岩や泥岩からなり、それらは安倍川右岸に分布する瀬戸川層群の堆積岩層に由来する。残りの礫は、安倍川左岸の竜爪 - 真富士山地の火山岩と凝灰岩の礫からなる。これらの礫とその組成の特徴は、三保半島から安倍川河口までの海岸のどこでも同じであることから、三保半島の海岸の礫は、前述のように安倍川河口から来たといえる。
また、有度山の南側海蝕崖の後退は海進期(海面上昇期)に行われるが、三保の砂嘴はその時期にはほとんど形成されず、むしろ海面上昇期の停滞期または海面降下期に形成された。依田ほか (2000)によれば、三保半島の駿河湾側の大陸棚の基盤の上には、ヴュルム氷期(7万年前から1万5千年前)以後に堆積した、下位からB層、A2層、A1層、A0層の4つの砂礫層が重なっている。そして、これらの層は、ヴュルム氷期以後の海面上昇期の停滞期と約6千年以降の海面低下期に形成された。以下に、依田ほか (2000)による分類を下位から示す。
これらの層は、内側から順に三保半島の3つの砂嘴を形成した。換言すれば、現在の三保半島はA0以前の地層により形成された広域な砂嘴台地を土台として、半島の基部から第1砂嘴・第2砂嘴・第3砂嘴と堆積したことによって形成された。つまり、海面上昇期(海進期)には、河口は後退して安倍川の礫は静岡平野の奥側に堆積したため、礫は三保半島まで運ばれなかった。しかし、海面停滞期には、礫の堆積によって河口が海側に押し出して、現在のように有度山の南側を通って礫が三保半島に運ばれた。そして、三保半島の付け根に運ばれた礫は、西側から順次堆積していき、砂嘴を形成した。半島沖大陸棚の地形平坦面の多くは、複合砂噴台地の不完全な埋積の結果、残存した堆積面である。
水稲耕作の全く不可能な三保半島において、人々が定着して生活を営むようになるのは、社会的分業の進んだ時期だと考えられている。
半島部のほぼ中央には、宮道Ⅰ遺跡が位置する。半島幅の最も広いこの辺りは宮方と呼ばれ、御穂神社を中心に古くから集落が形成されてきた。現在確認されている遺跡は19箇所あり、すべて御穂神社を中心に半径1キロメートル以内に分布している。なお、これらの遺跡の中では白浜Ⅰ遺跡が最古のものとして認められている。宮道Ⅰ遺跡からは、大形甕形土器の破片が多量に出土し、清水平野部にみられる土師器出土の遺跡とは性格を異にする。しかし、他の遺跡では須恵器や土師器の細片が希薄に散布する程度で、詳細な究明がされていない。
三保との境界に近い折戸字矢ヶ口には、古墳時代終末期のものとみられる縁生坊古墳が存在しており、7世紀において、周辺に本格的な集落が営まれたことを示している。
奈良時代から平安時代にかけての遺跡としては、宮道東遺跡が挙げられる。宮道東遺跡からは、かなり破壊された状態で三棟の住居跡が検出され、2001年には貼床部分から和同開珎や刀子・須恵器片が出土している。『続日本紀』の記述と、平城木簡より三保から税として煮堅魚が納められていること、遺跡から釣針や土器片が出土していることを考慮すれば、この和同開珎には重要な意味があると考えられる。
1703年(元禄16年)、駿府目付に任命された幕府使番三島清左衛門は、10月7日に駿府を出立し、途中の村々の村名・寺社名・溜池・支配者名などを記しながら清水を巡り、清水船問屋の船で三保へ渡り、三保村・折戸村・五間村・駒越村方面を巡見している。
三保村の村民は、暖かい気候を生かした農業と自然条件を利用した海苔・牡蠣などの漁業を中心とした半農半漁の村方で、特産物を生産・販売して生計を立てており、移民も多く、他村に比較して裕福な暮らしをしていた村であった。しかし、明治末から大正期にかけて、清水港港湾整備事業、太平洋戦争による軍需工場の誘致、軍事基地化による農地の強制的取り上げにより、その状況は一変している。
三保半島は温暖な気候を利用した促成栽培が有名で、慶長年間には折戸村の柴田家が、徳川家康へナスとシロウリを献上していた。柴田家は明治後も、江戸から多くの旧幕臣が移住して来たことを契機に、外国種を含む蔬菜の栽培や栽培施設の考案を行っていた。実際、1922年頃から、キュウリ・ナス・エンドウ・イチゴが珍重され、関東・関西の市場へ出荷され人気を博した。1924年には、清水港築港工場で職を失った養殖業者が蔬菜栽培・養鶏に力を入れ始めていた。昭和期からは、醸熱暖房の普及により、キュウリとインゲンマメの促成栽培が拡大し、共同出荷組合が結成されるようになる。1937年頃には、7つの出荷組合で加工場を設け、農作物の商品化を計画し、清水市は専門指導員を任命して技術の改良を望んだ。しかし、1940年には、工場立地を行う県の方針で、県下の農地は大幅に減少しつつあり、三保では日本発送電が貝島へ発電所の建設を計画し、貝島及びその周辺の農地を買い取った。
1940年頃より、満洲からの輸入量激減と統制による安値・配給制により、養鶏・養豚・養牛馬の飼料不足が深刻となる。また、節米運動が始まり、食糧不足対策が真剣に検討されるようになる。この頃から野菜類の闇取引と、それを取り締まる競合が始まる。同年には、日本発送電・日本軽金属・鶴見窯業・日本銅管が戦争遂行のための軍需産業設置を目的として、強制的に広大な農地を買収した。1941年には、米英に宣戦布告し、国民学校や中等学校生徒が農村に動員されるようになる。1943年には、食料の配給制度が始まり、食料の増産化も図るようになるが、食料不足はいよいよ深刻さを増し、農家は多収穫の品種に転換を余儀なくされた。食料増産の一方で、徴兵・徴用による人手不足で耕作しない田畑が増え、工場へ動員された農村出身者の帰農や、農繁期には女子挺身隊・学徒らの援農隊が組織された。とくに三保では、農地を軍事基地に奪われたため、満州に移住する者もいた。
1945年8月15日、終戦し空襲の恐れはなくなったものの、敗戦したことに加え、焼失した家屋の復旧・工場の操業停止・治安の悪化で混乱した時代は続いた。特に三保の食糧不足の原因は、耕地の減少と肥料不足によるものである。1946年、三保では外より二ヶ月早いサツマイモの収穫が始まり、買い出しの人々が続々と三保へ訪れる一方で、三保の住民は外浜で製塩を行い、塩を担いで甲州・信州・上越方面で米と交換していた。1949年、野菜統制令が解除となり、一時的に解散していた三保共同出荷組合が再結成される。1950年、戦前の畑にあった井戸は軍に接収されて殆ど埋め立てられた結果、農家の死活問題となっており、三保土地改良区を設置して灌漑設備をつくる計画が立てられた。1966・1967年には野菜生産出荷安定法が制定され、三保ではキュウリとトマトの産地指定を受けた。1969年には、各共同出荷組合が清水農協傘下の清水市温室組合に統合される。三保の農業は1960年頃までは芋・豆類の栽培が多かったが、1965-1970年にかけてはビニールハウスの普及により、促成キュウリ・抑制トマトの作付け体制が確立し、イチゴ・花卉の露地栽培は衰退していった。一方で、1965年頃からは塩水化による生育障害が続き、1988年には三保土地改良区が解散し、1998年頃にはタンクが撤去され、灌漑用水の歴史は幕を閉じた。
1998年時点における農産物生産量は、三保で枝豆・トマト・葉ネギ・キュウリ・中玉トマト、折戸で枝豆・メロン・トマト・キュウリ・中玉トマトの順である。
1876-1878年には、清水の元問屋らが回漕業の博運社や築港の波止場会社を設立し、向島を浚渫して清水波止場を造った。1908年には清水港浚渫工事が実施され、やがて沿岸漁民の海苔・牡蠣・真珠養殖は根絶されるようになる。1921年には、三保貝島の工業用地造成が始まる。工場建設によって排出される汚水、製材工場が投棄する鋸屑、暴風雨の度に流出する折戸湾貯木場の材木によって、海苔・牡蠣養殖業者は大きな打撃を受けた。三保村は貝島埋立地の一部を県に、三保浜漁業組合は損害賠償金を清水町に要求している。1929年には、県営貯木場が完成し、折戸湾の養殖業者は根絶に追い込まれるようになる。清水港の養殖業者は死活問題として認可取消を内務大臣に申請し、県へ大挙して押しかけた。1937年には、貝島にある日本石油の油タンクから重油が流出し、海苔が全滅した。三保浜漁業組合と日本石油は交渉を続け、一時は投石騒ぎが起きたが、同年には賠償金と見舞金の支払で解決している。
終戦後の折戸湾は、1946年から真珠養殖の研究が始まり、2年後には本格的な養殖が行われた。官の協定も影響して、1952年頃から折戸湾の牡蠣養殖業者は牡蠣から真珠養殖へと転向していき、1955年頃までに海苔生産は終了した。しかし、1958年、第二貯木場設置計画を知った真珠養殖業者は、養殖業が続けられるようにと県へ陳情書を提出した。特に鈴与と木材業者は折戸湾の漁業海域の利用を求めていたが、1960年には県と漁業協同組合との間で、補償問題の協定がまとまり、最終的には港発展を名目として漁業権が買い取られた。1964年には県と村松真珠養殖組合の間で、折戸湾の真珠養殖廃止の協定が結ばれ、養殖漁業は絶滅した。また、1970年には、塚間で行われていた真珠養殖が廃業となり、清水港の真珠養殖漁業も途絶えた。遠藤 (2002)は、養殖漁業が断絶した理由について、漁業権に関する知識が漁民の側になかったことを指摘している。
「三保」は古くは「御穂」「見穂」「美髴」「御髴」「微方」と書き、「みほ」と読んだ。三保の地名の由来については複数の説がある。
三保村は、古代は庵原郡に属したが、その後有渡郡となり、1638年(寛永15年)及び1700年(元禄13年)の郡境の改めで、巴川・貝島・三保神社の見通しで、北は庵原郡、南は有渡郡となった。また、駿河史料では、三保神社の社地は有渡郡、民家は庵原郡に属したという。その後は、
折戸は古くは、「織戸」と書かれた。地名の由来については、三保同様に複数の説がある。
折戸村は、以下の変遷を辿る。
静岡県道199号三保駒越線が南北に通る。バスはしずてつジャストラインが運行している。
かつて日本国有鉄道の清水港線が三保駅と清水駅を結んでいたが、1984年に廃線となっている。
富士山清水港クルーズ株式会社が、清水港水上バスを運航している。
東経138度31分02.5秒 / 北緯35.006472度 東経138.517361度
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