第4代ノーサンバランド伯 ヘンリー・パーシー

第4代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー(Henry Percy, 4th Earl of Northumberland, 1449年頃 - 1489年4月28日)は、15世紀イングランドの貴族。薔薇戦争期には父がランカスター派だったためにヨーク派に捕らえられるが、エドワード4世の治世にヨーク派に忠誠を誓い、さらにテューダー朝成立後はテューダー朝のために活動した。

ヘンリー・パーシー
Henry Percy
第4代ノーサンバランド伯
第4代ノーサンバランド伯 ヘンリー・パーシー
ヘンリ・パーシーの紋章
在位 1470年 - 1489年

出生 1449年
死去 1489年4月28日
配偶者 モード・ハーバート
子女 一覧参照
家名 パーシー家
父親 第3代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー
母親 エレノア・ポイニングズ
テンプレートを表示

血縁

父の従兄弟姉妹には、エドワード4世ブルゴーニュ公妃マーガレットクラレンス公ジョージリチャード3世といったヨーク派の主導者が多数いたが、父はランカスター派に忠誠を誓っていた。

パーシー自身の代になると、エリザベス・オブ・ヨークエドワード5世リチャード・オブ・シュルーズベリー、リール副伯アーサー(エドワード4世の庶子)、マーガレット・ポールウォリック伯エドワードエドワード・オブ・ミドルハムらのヨーク朝の王位に近い面々が「又従兄弟姉妹」となる。彼は父と道をたがえて、パーシー家で唯一ヨーク派に与することになる。

ちなみに、王族ではないがバッキンガム公ヘンリー・スタフォードとも又従兄弟にあたり、1490年にスタフォードの息子エドワードとパーシーの娘エレノアが結婚している。ただし、スタフォードとパーシーは既に死亡している。

生涯

1449年頃、パーシーは第3代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとエレノア・ポイニングズ(リチャード・ポイニングズ卿の娘)との間に生まれた。父はその血がヨーク派に近いのとは裏腹に、祖父ヘンリー・パーシー以来のネヴィル家との確執からランカスター派に忠誠を誓っていた。だが、祖父が1455年セント・オールバーンズの戦いで、父が1461年3月29日タウトンの戦いで戦死すると、ノーサンバランド伯爵の爵位は勝者であるヨーク派によって消滅させられ、この時10代のパーシーはロンドン刑務所(Fleet Prison)に投獄された(1464年に政治犯ということでロンドン塔に移送されている)。

1465年、ランカスター派掃討で功績を認められたジョン・ネヴィルノーサンバランド伯に列せられたが、パーシーはヨーク派のエドワード4世に忠誠を誓って、1469年に釈放された。パーシーはエドワード4世に、先祖伝来のノーサンバランド伯爵位と伯爵領の返還を請願した。これがエドワード4世に認められた事で、ジョン・ネヴィルはノーサンバランド伯爵位を返還しなければならなくなり、代わりに1470年にモンターギュ侯に列せられた。だがパーシーへの所領の返還は、イングランド議会によって1473年まで延期された。

その後の12年間、パーシーはパーシー家が代々勤めた北イングランドの要職を歴任した。1485年8月22日のボズワースの戦いで、パーシーはヨーク派右翼の予備軍を指揮していたが、戦況を見つつも決して自軍を参戦させようとはしなかった。この時の彼の消極的な行動が、リチャード3世の敗死の大きな要因となった。歴史家の中にはこの行動を「ヘンリー7世に味方した反逆」とする見方もあるが、「リチャード3世が敗死した時のパーシーの右翼軍は、リチャード3世の本陣の後ろに退陣していたため、戦闘に参加できなかった」という説もある。

もっとも、仮に反逆だったとしても、ヘンリー7世はその意図を知らないか感謝もしていなかったらしく、パーシーはウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル、トマス・ハワードとともに逮捕された。パーシーは数ヶ月間収監されて、ヘンリー7世に忠誠を誓った。王権の安定を優先させたいヘンリー7世は、パーシーを好条件(爵位・所領とも安堵)で解放した。

1489年4月、パーシーはヨークシャーにある所領に住んでいた。当時、ヘンリー7世はフランスシャルル8世に対抗するためにブルターニュ女公アンヌと同盟しており、軍費調達のために税が高騰していた。この高い課税に抗議してヨークシャーのジョン・イグリモント卿は暴動を扇動し、目をつけられたパーシーは4月28日、暴徒によって殺害された。

ヨークシャーは元々ヨーク派の拠点であり、リチャード3世の支持が根強かったので、恐らくパーシーはリチャードの敵討ちで殺されたのだろう。

家族

パーシーは1473年から1476年の間にモード・ハーバート(1448年 - 1485年/1495年7月27日)と結婚していた。彼女はペンブルック伯ウィリアム・ハーバートとその妻アン・デヴェローの娘であった。

彼らには8人の子供がいた。

爵位・家督
先代
ヘンリー・パーシー
ノーサンバランド伯
1470年 - 1489年
次代
ヘンリー・アルジャーノン・パーシー

Tags:

1449年1489年15世紀4月28日イングランド王国エドワード4世 (イングランド王)テューダー朝ヨーク朝ランカスター朝薔薇戦争

🔥 Trending searches on Wiki 日本語:

宮澤エマドラァグクイーン日本調教馬の日本国外への遠征Winny事件松本梨香蔡英文三上悠亜バイオハザードシリーズ大谷徹SEVENTEEN (音楽グループ)原嘉孝ジャパンディスプレイBLUE GIANTトップコートハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧白石麻衣第一次世界大戦グランマの憂鬱進撃の巨人の登場人物ロサンゼルス・エンゼルスバンカケ〜警視庁自動車警ら隊サントリータコハイ杉谷拳士潮吹き (女性器)熊本3歳女児殺害事件朴璐美ペルソナの密告 3つの顔をもつ容疑者性交体位SSSS.DYNAZENON鬼頭明里仮面ライダー555深津絵里3年B組金八先生ラダメル・ファルカオBLACKPINKほな・いこか松原千明鬼滅の刃粗品 (お笑い芸人)茂野吾郎専修大学松戸中学校・高等学校ロサンゼルス・ドジャース大河ドラマ糸井嘉男もののがたりぽかぽか栗山英樹桃井かおりK2 (漫画)柄本佑スピッツ (バンド)名探偵コナンのアニメエピソード一覧わたせせいぞうPHS森脇健児日本テレビ放送網奈緒NiziU沢田研二Instagram古川慎都倉俊一ギムリー・グライダー城石憲之広陵高等学校 (広島県)特捜9岡田紗佳ドラえもん映画作品北村匠海福島弓子牧野富太郎鶴岡慎也文化庁日覺昭廣立花孝志扇千景女王の教室🡆 More