フェルディナン・フォッシュ(Ferdinand Foch, 1851年10月2日 - 1929年3月20日)は、フランスの陸軍軍人。
フェルディナン・フォッシュ Ferdinand Foch | |
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生誕 | 1851年10月2日 フランス共和国 オート=ピレネー県 タルブ |
死没 | 1929年3月20日(77歳没) フランス共和国 パリ |
所属組織 | フランス陸軍 |
軍歴 | 1871 - 1923 |
最終階級 | 陸軍中将 (Général de Division) |
署名 |
スペインとの国境に近い南西部のタルブのカトリックの有閑階級の家庭に生まれる。父は徴税請負人。母は軍人ジャック・ロマン・デュプレの娘で、医師・政治家のジェルマン・デュプレはおじ。
志願兵として普仏戦争に従軍。エコール・ポリテクニーク卒業、フォンテーヌブロー応用砲兵学校(École d'application d'artillerie de Fontainebleau、のちのÉcole de l'artillerie)卒業。軍事思想家として1895年からエコール・シュペリウール・ミリテールで戦略戦術論を教授し、「戦争の原則」、「戦時統帥論」などを著した。
1907年に少将、1911年に中将に昇任し第13歩兵師団の師団長、翌1912年に第8軍団の軍団長、1913年に第20軍団の軍団長に就任。マルヌ会戦の直前の1914年8月29日に新たに編成された第9軍を指揮、10月4日に北部軍集団司令官に任ぜられた。その後も幾つかの戦闘に参加している。1918年3月26日のドゥラーズ会議において連合国軍総司令官に就任、同年8月にはフランス元帥の称号を受けた。連合国を勝利に導いた軍人として賞賛を受け、1919年にはイギリス陸軍元帥、1923年にはポーランド元帥にも叙せられている。パリ講和会議において制服組の首領として、ドイツやボリシェヴィキ政権に対して非常に厳しい軍事的措置を主張し、急進左派のジョルジュ・クレマンソー首相との関係も悪化している。戦後の1925年から1926年にはドイツ非武装監視委員会会長を務めた。1929年3月20日に没し、オテル・デ・ザンヴァリッドに葬られた。
学職 | ||
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先代 メルシオール・ド・ヴォーグエ | アカデミー・フランセーズ席次18 第12代:1918年 - 1929年 | 次代 フィリップ・ペタン |
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