ハンス・メムリンク(メムリング、Hans Memling, 1430年/1440年頃 - 1494年8月11日)は、15世紀フランドルの画家。
ハンス・メムリンク | |
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本名 | Hans Memling |
誕生日 | 1430年頃 |
出生地 | マインツ大司教領ゼーリゲンシュタット |
死没年 | 1494年8月11日 |
死没地 | ネーデルラント17州ブルッヘ |
芸術分野 | 絵画 |
15世紀後半にブルッヘで活躍した画家。ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンに続く世代の北方絵画を代表する画家である。宗教的な主題を、華麗な色彩と、北方絵画特有の細部までゆるがせにしない徹底した写実表現をもって描いた。
ドイツのフランクフルト近郊ゼーリゲンシュタットの生まれだが、主にフランドルのブルッヘで活動している。生年ははっきりしていない。父はHamman Momlingen、母はLuca Stirn、両親は1451年ごろに死去した。ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修業したと推定され、1465年にはブルッヘの市民権を得ている。1470年には「雪の聖母兄弟団」(Gilde van Onse LieveVrouwe van der Snee)に入団。1480年ごろに, Sint Joris 街に邸宅を購入。1480年 ブルッヘの富家227人の一人として皇帝マキシミリアンに戦時税を支払った。1487年 妻 Tanna逝去。財産を子供3人Hannekin, Neelkin, Claykinと分割した。1494年8月11日 逝去 ブルッヘの聖ヒーリス教会に埋葬。2006年現在、墓石は行方不明。
18世紀半ば、フランス宮廷画家でもあったジャン=バティスト・デカンが1753年に刊行したLa Vie des peintres flamands, allemands et hollandaisに、「ブリュージュの近郊ダムで生まれたメムリンクは、若いころ無頼少年で、兵士になり、傷病した。その傷ついた身体を看護治療してくれたのが聖ヨハネ病院で、そこで絵を描きだして有名になった。」という、聖ヨハネ病院の誰かから聴いたという伝説を記した。「ナンシーの戦いで負傷した」と付会したのは、1845年に、Histoire de la peintre flamande et hollandaise, Ⅱ, Brussel, 1845を刊行したA.Michielis。この伝説はFierens-Gevaert(1922)で既に、「現在では意味がない」と否定されている。
シュテファン・ロッホナー、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン,ヤン・ファン・エイクの影響が感じられる宗教画のほか、寄進者像を中心とした肖像画にも優れたものが残っている。メムリンクの作品には、師のファン・デル・ウェイデンのような激しい情感の表出は見られず、画面は静寂感に満ちている。細部の精密描写は北方絵画全般に見られる特色だが、メムリンクは、金属製の鎧の表面に映った鏡像までも執拗に描写している。端麗な古典主義の画家という評価がある。油彩画の総カタログは(Dirk de Vos(1994))、Faggin(1973)、Friedlaender(1971)が有名である。以下、作品番号はVはDirk de Vos、 FAはFaggin、FはFriedlaenderと仮に表示しておく。
受難(Passion) en:Altarpiece/en:Polyptych (1491) リューベック en:Lübeck聖アンナ博物館de:St.-Annen-Museum Lübeck
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