アントニオ古賀(アントニオ こが、1941年2月26日 - )は、日本人ギタリスト、歌手、編曲家である
アントニオ古賀 | |
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出生名 | 伊東 貞行 |
生誕 | 1941年2月26日(83歳) |
出身地 | 日本 東京都 |
職業 | ギタリスト 歌手 東京国際大学人間社会学部客員教授 |
活動期間 | 1959年 - |
共同作業者 | 古賀政男 |
公式サイト | アントニオ古賀公式サイト |
ギター演奏や、ピアノ、ギター寄贈などの活動を通してキューバとの親善交流を精力的に行っている。
1941年2月26日、東京都出身。本名は伊東 貞行(いとう さだゆき)。
1949年より日本でセゴビア奏法をマスターした唯一のギタリストといわれる[要出典]阿部保夫に弟子入りし、クラシックギターを学ぶ。
1956年、作曲家の古賀政男に弟子入りし、歌唱法を学ぶ。芸名は古賀政男が名付けたものである。古賀政男がアルゼンチンを訪問した際にギターの弾き方を直接指導してくれたギタリストのアントニオ・シノポリの「アントニオ」と、古賀政男自らの「古賀」を足して、「アントニオ古賀」とした(デビュー当時のレコード上では、全てカタカナで「アントニオ・コガ」と表記されていた)。幅広いジャンルの歌・ギターをこなしたその才能を古賀政男に認められて、1959年に日本コロムビアと専属契約を結び、同年6月に日本相互ホールにてデビューリサイタル(関係者のみの非公式開催)を開いた。同年10月にLPアルバム『フラメンコ・スタイル 古賀メロディ』でギタリスト、歌手デビューを果たした。
1960年、当時の歌手の憧れのステージの一つでもあった日本劇場(通称日劇)で行われた「ラテン・フェティバル」(2月)に出演した。またこの年から翌年まで同じ古賀政男門下生であるレキント・ギターの名手、鶴岡雅義とコンビを組んで活動している。その1961年、サンケイホールで行われた「さよならトリオ・ロス・パンチョス」公演(1月)に特別出演した際に、トリオ・ロス・パンチョスのメンバーから「その名はフジヤマ」をプレゼントされる。 アントニオ古賀は当時のレコード制作担当に、「これはいい曲だから」と訴え、自身のセカンドシングル盤として同年4月に発売し、歌手として代表ヒット曲となる。 同年2月には再び日劇で第2回の「ラテン・フェスティバル」に出演した。同年3月に発売したアルバム『ラテン・ギター・ムード』は、同年のコロムビアLPヒット賞を受賞、このアルバムをきっかけにギタリストとしても高評価を得た[要出典]。また、同年の春公開の新東宝映画『東京湾の突風野郎』に出演し、主題歌・挿入歌も担当した。
1963年11月、日比谷公会堂で行われた初のリサイタルでは、この会場では異例の長蛇の列となり、話題となった[要出典]。1964年、NHK『歌のグランド・ショー』の司会を務め、茶の間の人気者となる[要出典]。
1965年、高橋英樹主演の日活映画『拳銃野郎』に出演し、主題歌「キラー・ジョー」を唄う。ギターソロアルバム『荒城の月』がコロムビアゴールデンディスク賞を受賞し、翌1966年、ギター演奏のアルバムがコロムビアLPヒット賞を受賞。第17回NHK紅白歌合戦に歌手として初出場を果たし、『その名はフジヤマ』を歌った。
1968年、音楽の勉強のため世界を旅行して廻った。同年12月1日に日比谷公会堂でその成果を2回目のリサイタルで発表し、その精彩溢れるステージは激賞された[要出典]。
1971年、「コーヒールンバ」に医薬品の商品名を羅列した歌詞を乗せた(替え歌)コミックソング「クスリ・ルンバ」(シングル)がヒットし、「その名はフジヤマ」と並んで歌手としての代表作となっている。1982年にその続編として「クスリ・ルンバ PartII」を発売。こちらは前編とは登場する医薬品名が若干異なるほか、2番以後は日本酒の銘柄、麻雀用語の羅列となっている。
1976年、アントニオ古賀ギター歌謡学院開校。また、同年2月2日放送の「徹子の部屋」第1回放送にて、ゲストの森繁久彌の歌う知床旅情のバック演奏を担当した。当時34歳。
1978年、NHK教育テレビ『ギターをひこう』の講師を務めた(番組は視聴者に好評で[要出典]、79年と83年にも再度講師を担当している)。
1979年、東京・厚生年金ホールにて芸能生活20周年記念リサイタル「オーレ! アントニオ!!」を開催した。5年後の1984年11月、NHKホールにて芸能生活25周年記念リサイタルを開き、1989年には新高輪プリンスホテル「飛天の間」にて芸能生活30周年記念パーティー開催。
1994年、芸能生活35周年コンサート「アントニオ・古賀35th ~古賀政男生誕90年によせて~」をNHKホールにて開催。
長年に亘るラテン音楽を基にしての活躍ぶりや、キューバとの国際交流における多大な貢献により、キューバ政府から文化功労賞を受け、2000年にはカストロ議長と会談もしている。
2008年4月からラジオ関西『〜アントニオ・古賀の元気配達便〜縁歌の王道』のレギュラーを持つ。同年12月1日、東京・港区東麻布のキューバ大使館で、キューバとの友好親善に貢献した者に対する最高の勲章「連帯大勲章」を日本の民間人として初めて授与された。
2009年には芸能生活50周年を迎え、5月21日にキューバ大使館でライヴを行った。6月にデビュー50周年記念本『音霊(おとだま) —古賀メロディとともに』が出版された。また、同じ6月から、全国100ヵ所のコンサートツアーを行った。
2010年より東京国際大学人間社会学部客員教授に就任。
父は清元、母は小唄をやっていた。父はアントニオが2歳の時にミャンマーで戦死した。ミュージカル俳優の泉拓真、歌手でドッグハイドロセラピストの“J”アントニオは息子である。
2003年に30歳年下の女性と再婚、翌2004年8月に男児をもうけている。
(森繫久彌歌唱シングル A面フラメンコかっぽれのギター伴奏)SAS-263
年度/放送回 | 曲目 | 対戦相手 | ||
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1966年(昭和41年)/第17回 | その名はフジヤマ | 九重佑三子 | ||
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