アルフォンス・マリー・ルイ・ド・プラ・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine、1790年10月21日 - 1869年2月28日)は、フランスの詩人、著作家、政治家。ロマン派の代表的詩人で、フランスにおける近代抒情詩の祖といわれ、ヴェルレーヌや象徴派にも大きな影響を与えている。また2月革命前後に政治家としても活躍した。
アルフォンス・ド・ラマルティーヌ Alphonse de Lamartine | |
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アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1856年) | |
誕生 | アルフォンス・マリー・ルイ・ド・プラ・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine) 1790年10月21日 フランス王国、ソーヌ=エ=ロワール県マコン |
死没 | フランス帝国、パリ |
墓地 | サン=ポワン(ソーヌ=エ=ロワール県) |
職業 | 小説家、詩人、歴史家、政治家 |
言語 | フランス語 |
ジャンル | 小説、詩、戯曲、歴史、回想録、紀行、伝記 |
文学活動 | ロマン主義 |
代表作 | 『瞑想詩集』 『詩的宗教的諧調詩集』 『ジョスラン』 『グラツィエッラ』 |
署名 | |
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1790年、フランス王国のマコン(現ソーヌ=エ=ロワール県、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏)の貴族に生まれ、王政復古期に一時軍に籍を置いた。のちに外交官となり、1825年から1828年までイタリアに駐在した。
また自らの恋愛体験にも影響された抒情詩を書いた。特に1820年、『瞑想詩集』(Méditations poétiques)を世に出し、一躍注目された。これは、彼が愛した年上の貴婦人との出会いと死別に触発されたものといわれるが、文学的にも近代フランス抒情詩のはじまりとして高く評価される。続いて『新瞑想詩集』(Nouvelles Méditations poétiques, 1823年)、『詩的宗教的諧調詩集』(Harmonies poétiques et religieuses, 1830年)などを発表。
1829年にはアカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。
1830年の7月革命を契機に政治活動を開始し、1833年には代議士に当選した。彼は理想主義的で、政治的には王党派と社会主義派の中間的な穏健思想を持っていたとされる。
この間にも詩のほか、小説や『東洋紀行』(Voyage en Orient, 1835年)、歴史書『ジロンド党史』(Histoire des Girondins, 1847年)などを出した。しかし1840年代になると政治活動に力を入れて詩作を絶った。
1848年の2月革命で、臨時政府の外務大臣となった。同年12月の大統領選挙ではルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)と争って敗れ、1851年のクーデターで政界を引退した。
晩年は不遇で、莫大な負債のために大量の作品を書き続けたが、これらは文学的には評価されていない。
1869年2月28日、パリにて死去、享年78歳。ソーヌ=エ=ロワール県サン=ポワンの墓地に眠る。
前任 ピエール・ダリュ | アカデミー・フランセーズ 席次7 第11代:1829年 - 1869年 | 後任 エミール・オリヴィエ |
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