「藤原道長」の検索結果 - Wiki 藤原道長
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藤原 道長(ふじわら の みちなが、康保3年(966年)- 万寿4年12月4日(1028年1月3日))は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の三帝の外祖父。 関白・藤原兼家の息子に生まれるが、道隆・道兼という有力な兄に隠れ、一条朝前半ま… |
忠平の次男 九条流(嫡流)祖 藤原兼家 - 師輔の三男 藤原道長 - 兼家の四男 御堂流(嫡流)祖 藤原頼通 - 道長の長男 藤原師実 - 頼通の三男 花山院流祖 藤原師通 - 師実の長男 藤原忠実 - 師通の長男 藤原忠通 - 忠実の長男 近衛基実 - 忠通の長男 近衛家の祖 九条兼実 - 忠通の三男 九条家の祖 藤原永手… |
中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の代に認められたのに始まる。鎌足が中臣氏の出身であるため、祖は中臣氏と同じく天児屋命と伝える。 奈良時代に南家・北家・式家・京家の四家に分かれ、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。北家の中でも権勢を誇った藤原道長… |
『紫式部日記』には、夜半に道長が彼女の局をたずねて来る一節があり、鎌倉時代の公家系譜の集大成である『尊卑分脈』(『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』)になると、「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」と註記が付いている。これは『紫式部日記』に「紫式部が藤原道長… |
藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿、歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇、後冷泉天皇の治世にて、関白を5… |
^ 樋口健太郎は藤原道長の摂政就任と辞任、更に太政大臣任命の決定が幼少の天皇や摂政(道長)本人ではなく、母后である上東門院(藤原彰子)が決定していることを注目し、摂関政治に致命的な打撃を与えたとされる白河法皇による摂政・関白に対する人事権行使は上東門院(藤原彰子)の先例に由来するとみている。… |
後一条天皇 (カテゴリ 藤原彰子) 1036年5月15日〈長元9年4月17日〉)。諱は敦成(あつひら)。 一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。 一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。その誕生の様子は「紫式部日記」に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となる。… |
藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。 藤原道長の五男であったが、同母兄・頼通と同じく嫡子として扱われ、寛弘3年(1006年)元服して正五位下に直叙され、侍従に任ぜられる。兵衛佐・… |
後朱雀天皇 (カテゴリ 藤原彰子) 1045年2月5日〈寛徳2年1月16日〉)。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。 兄と比べ気性がキビキビして誤魔化しが効かず、朝政の運行に積極的に当たったが、藤原頼通との間で責任を擦り付け合った事が屡々あって臣下から信任をキープするのに苦労した。… |
6月、左大臣・藤原道長が、従者たちに命じて、祇園御霊会(祇園祭)に参加していた散楽人たちに暴行を加える。 8月、正三位・藤原兼隆が、自邸の厩舎人を、人に命じて撲殺させる。 8月15日、藤原道長が、妻の外出準備の手際が悪かったとして、家司だった藤原方正と紀忠道を自邸の小屋に監禁する。… |
藤原道長の施策にはむしろ抑制的な面も見られる。摂関政治の最大の課題は、負名体制と受領行政との矛盾、そして権門の荘園整理にどう取り組むかという点にあった。 藤原道長全盛期の時代は、道長の日記「御堂関白記」、道長の側近である藤原行成の日記「権記」、道長に迎合せず有職故実・律令に則って行動した藤原… |
藤原 妍子(ふじわら の けんし/きよこ、994年4月〈正暦5年3月〉- 1027年10月16日〈万寿4年9月14日〉)は、日本の第67代天皇・三条天皇の皇后(中宮)。別名枇杷殿皇太后。 藤原道長の次女。母は源倫子。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威子・嬉子がある。子は禎子内親王。… |
藤原 威子(ふじわら の いし/たけこ、長保元年12月23日(1000年2月1日) - 長元9年9月6日(1036年9月28日))は、平安時代中期の女性。摂政藤原道長の娘。母は源倫子。第68代後一条天皇中宮。別名大中宮。子女は章子内親王(後冷泉天皇中宮)、馨子内親王(後三条天皇中宮)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・嬉子。… |
藤原道長に移る。長徳5年(999年)公任は14年ぶりに昇叙されて従三位になるが、この頃より公任は道長に接近するようになる。具体的には以下のような記録が残っている。 5月6日:道長邸の改築に伴う祝宴に参加。当日公任が詠んだ漢詩は『本朝麗藻』に、和歌は『拾遺和歌集』に残る 9月12日:道長… |
藤原 嬉子(ふじわら の きし/よしこ、寛弘4年1月5日(1007年1月26日) - 万寿2年8月5日(1025年8月30日))は、摂政藤原道長の六女。母は源倫子。尚侍。第69代後朱雀天皇の東宮妃、第70代後冷泉天皇生母。贈皇太后。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・威子。… |
御堂関白記 (カテゴリ 藤原道長) 藤原道長は平安時代の貴族の摂政太政大臣で、一条、三条、後一条の3代にわたって左大臣や内覧を歴任し『日記』ではその間の詳細を綴り、同時代の貴族が記した『小右記』(藤原実資)『権記』(藤原行成)などと共に、当時の貴族社会を知る重要な史料となっている。 道長… |
藤原兼家、関白就任。藤原道隆、摂政・関白就任。 イングランドにノルウェー王オーラヴ1世来襲する。デーンゲルドの徴収始まる この頃清少納言が枕草子を記す(成立年代については諸説あり)。 藤原道兼、関白に就任するが、就任後12日で死亡し、「七日関白」と称される。 藤原道長が内覧となり、事実上の摂政となる。… |
廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。『日本紀略』によれば、永延2年(988年)9月には関白の藤原兼家が新邸を造営した宴において馬30頭を送っている。 正暦元年(990年)、関白・兼家の葬儀に際して藤原道長の振る舞いに感心して側近として従うようになっ… |
五男:藤原道長(966-1028) 妻:藤原道綱母(藤原倫寧の娘)(936?-995) 次男:藤原道綱(955-1020) 妻:保子内親王(村上天皇第三皇女)(949-987) 妻:対御方 - 藤原国章の娘 四女:藤原綏子(974-1004) - 三条天皇東宮女御、尚侍 妻:藤原忠幹の娘 四男:藤原道義… |
藤原教通室)ら四男二女をもうけた。 しかし、父済時の死後は後見も弱く、ことに左大臣・藤原道長が娘の妍子を後宮に送り込み中宮に立てたため、その権勢に押されがちであった。これに対して三条天皇は、大納言で没した父済時に右大臣を追贈し娍子を皇后に立てたが、立后当日も道長… |