「藤原胤子」の検索結果 - Wiki 藤原胤子
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藤原 胤子(ふじわら の いんし/たねこ、生年不詳 - 寛平8年6月30日(896年8月12日))は、内大臣藤原高藤(藤原北家冬嗣の孫)女。母は宮道列子。第59代宇多天皇女御、第60代醍醐天皇・敦慶親王・敦固親王・柔子内親王・敦実親王生母。同母兄弟に大納言右大将藤原定国・右大臣藤原定方。… |
柔子内親王(じゅうしないしんのう)は、宇多天皇の第二皇女。母は藤原胤子で、醍醐天皇の同母妹にあたる。六条斎宮とよばれた。名は「よしこ」とも読む。 寛平4年(892年)12月29日に内親王に宣下される。寛平9年(897年)8月13日伊勢斎宮となり、昌泰元年(898年)4月25日野宮、5月初斎院に入った… |
ベトナム : 仏滅紀元: ユダヤ暦: 896年のカレンダー(ユリウス暦) 藤原守義、平安時代初期、中期の公卿(+ 974年) 4月4日 - フォルモスス、第111代ローマ教皇(* 生年未詳) 8月12日(寛平8年6月30日) - 藤原胤子、宇多天皇の女御(* 生年未詳) ウィキメディア・コモンズには、896年に関連するカテゴリがあります。… |
子の変の教訓から成立した原則によるもので、陽成・宇多両上皇のケースはこの原則に基づいたものとする考えもある。 女御(皇太夫人):藤原温子(872年 - 907年) - 藤原基経女 均子内親王(890年 - 910年) - 敦慶親王妃 女御(贈皇太后):藤原胤子(? - 896年) - 藤原高藤女… |
父:藤原良門 母:高田春子(高田沙弥麻呂の娘) 妻:宮道列子(宮道弥益の娘) 男子:藤原定国(867-906) 男子:藤原定方(873-932) 女子:藤原胤子(?-896) - 宇多天皇女御、贈皇太后 女子:藤原満子(872-937) - 尚侍 妻:大江元平の娘 男子:藤原定文(?-907)… |
敦実親王(あつみしんのう)は、宇多天皇の第八皇子。母は贈皇太后・藤原胤子で、醍醐天皇の同母弟。官位は一品・式部卿。六条宮を称した。 延喜7年(907年)、宇多院にて元服し、親王宣下を受けて三品に叙せられる。のち、上野太守・中務卿・式部卿を歴任し、一品に叙せられた。… |
現在に至るまで臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源維城といった。のち父の即位とともに皇族に列し、親王宣下ののちに敦仁親王に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。 元慶9年(885年)1月18日、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城として生まれる。仁和3年(887… |
藤原胤子は天皇即位前に薨去し皇太后を追贈され、また、朱雀天皇以降は生母が皇后であることが続いた。一条天皇生母の藤原詮子は皇后を経ずに一条天皇即位後に皇太后となり、結局、醍醐天皇養母である藤原温子を最後に皇太夫人の称は用いられなくなった。 藤原宮子 -… |
宇多天皇は即位前から既に藤原胤子や橘義子らの妃との間に子女をもうけていたが、阿衡事件などでこじれていた基経との関係改善のためにも、温子入内は不可欠であった。入内後は関白の娘として基経没後も後宮で重きをなし、一人娘均子内親王を産んだものの皇子には恵まれなかったため、胤子… |
勧修寺 (藤原高藤と宮道列子に関する説話の節) 『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改め、氷室池も取り込んだもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は… |
勧修寺(京都市山科区) 別格本山 田福寺(和歌山市) 準別格本山 一般寺院 教会 真言宗山階派の歴史は勧修寺の開創に始まる。勧修寺は醍醐天皇国母藤原胤子の発願により、外戚宮道氏の邸宅を伽藍として、承俊を開山として建立された。905年(延喜5年)には定額寺、年分度者を置くことを許されて、真言宗・三論… |
った(第一皇子の母広姫)。その場合にはのちに女御や中宮まで進むことがあり(醍醐天皇の生母で藤原北家傍流高藤流の藤原胤子は宇多天皇の即位と所生の皇子の儲君治定を機に更衣から女御への道を歩んでいる)、その所生の子も必ずしも臣籍降下の対象とはされなかった(たとえば文徳天皇の寵妃紀更衣静子が産んだ第一皇子… |
延長4年(926年)12月28日:薨去(二品兵部卿) 『尊卑分脈』による。 父:宇多天皇 母:藤原胤子(藤原高藤の娘) 妻:慶子内親王 生母不詳の子女 男子:源宗至 男子:源宗城(?-933) 男子:寛忠(906-977) ^ a b c 『貞信公記』 ^ 『尊卑分脈』 『大日本史料』1編5冊 『本朝皇胤紹運録』… |
宇多天皇女御・藤原胤子(藤原高藤女) 醍醐天皇女御・源和子(光孝天皇皇女) 円融天皇女御・尊子内親王(火の宮、冷泉天皇皇女) 一条天皇女御・藤原元子(藤原顕光女) 後三条天皇女御・藤原昭子(藤原頼宗女) 白河天皇女御・藤原道子(藤原能長女) 後白河天皇中宮・藤原忻子(藤原公能女)… |
奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年合戦・後三年合戦の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間に陸奥(後の陸中国)平泉を中心として出羽を含む奥羽地方(現在の東北地方)一帯に勢力を張った藤原北家の支流の豪族。藤原北家秀郷流一族。 奥州藤原氏の遠祖である藤原… |
正月3日:見式部卿。8月4日:大学別当 延長8年(930年) 2月28日:薨去(二品行式部卿) 注記のないものは『尊卑分脈』による。 父:宇多天皇 母:藤原胤子(藤原高藤の娘) 妻:均子内親王 妻:伊勢(藤原継蔭の娘) 女子:中務(912?-991?) 生母不明の子女 男子:源後古 男子:源方古 男子:源福慶 ^ 『日本紀略』延喜10年2月25日条… |
藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、平安時代中期、第64代天皇・円融天皇の女御。一条天皇の母(国母)。院号は東三条院(ひがしさんじょういん)。 摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原… |
子と高藤が結ばれた話がモデルであると言われている。なお、作者の紫式部は高藤と列子の子孫にあたる。 父:宮道弥益 母:不詳 夫:藤原高藤 男子:藤原定国(867年 - 906年) 男子:藤原定方(873年 - 932年) - 紫式部の曽祖父 女子:藤原胤子(? - 896年) -… |
藤原 呈子(ふじわら の ていし/しめこ)、天承元年(1131年) - 安元2年9月19日(1176年10月23日))は、平安時代末期の皇妃、女院。第76代近衛天皇中宮。父は藤原伊通、母は藤原顕隆の娘・立子。藤原得子(美福門院)と藤原忠通の養女。院号は九条院(くじょういん)。法名は静浄観。… |
本書の成立時期について、①『本朝月令』六月同日国忌事条と、②『本朝月令』と『政事要略』に引用される典籍の比較によって分かる。 先ず①について、当該条に「贈皇后藤原氏。諱胤子。先帝之妣」という記載がある。藤原胤子は宇多天皇の女御で、醍醐天皇の母である。「妣」の文字は母という意味であるため、「先帝」は醍醐天皇である。よって、醍醐天皇を先… |