「北条氏康」の検索結果 - Wiki 北条氏康
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北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代当主。母は氏綱の正室の養珠院。姓名は平氏康。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配… |
氏綱長男 北条氏政【四】 - 氏康次男(長男夭折のため長嫡子) 北条氏照(大石氏照) - 氏康三男(大石氏を継承) 北条氏邦(藤田氏邦) - 氏康四男(藤田氏を継承) 北条氏規 - 氏康五男 北条氏忠(佐野氏忠) - 氏康六男(佐野氏を継承) 北条三郎(上杉景虎) - 氏康八男(上杉家へ養子) 北条氏光 -… |
北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。今川義元の甥にあたる。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。… |
北条 氏照(ほうじょう うじてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 天文11年(1542年)に、北条氏康と瑞渓院の子、氏康の三男として生まれる。 弘治元年(1555年)11月に下総葛西城で行われた古河公方・足利義氏の元服式に、兄弟で唯一、父・氏康と一緒に参加している。… |
氏康が出陣、2000の兵を率いて上杉朝定の本拠河越城を急襲した。まさか本拠地が攻撃されるとは思っていなかった朝定は北の松山城に逃れ、北条軍が無傷で河越城を占領した。江戸城が北条氏綱に落とされてから13年、今度は河越城が北条氏康… |
北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。… |
10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため上杉軍は唐沢山城を攻撃し、佐野昌綱を降伏させると人質をとって帰国した。 永禄8年(1565年)2月、越前守護・朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦していたため、輝虎に救援を要請した。 3月、関東の中原を押さえる要衝・関宿城が北条氏康の攻撃に晒される(第一次関宿合戦)。氏康… |
北条 氏邦(ほうじょう うじくに) / 藤田 氏邦(ふじた うじくに)は、戦国時代の武将。北条氏康の五男。後北条氏が豊臣秀吉による小田原征伐で滅亡した後は前田利家の家臣となった。 従来の通説では氏康の四男で、正室・瑞渓院を母とするとされていたが、元亀2年(1571年)における北条… |
古河公方 (晴氏、北条氏康と対立(河越合戦)の節) 年)に開かれたとされる。当初は「永昌寺」と称し、近世古河城内の場所にあったとも言われるが、一旦廃寺。北条氏康妹であり晴氏室の芳春院、義氏室の浄光院により、氏康の菩提を弔うために市内坂間に再建され、氏康法号の「大聖院」と改められた。元和6年(1620年)、現在地の市内南新町(本町)に移転。 徳星寺:… |
盛秀の妻)に比定されている。なお、黒田基樹は養勝院殿を北条氏家臣の朝倉氏出身としている。 天文6年(1537年)から上杉家との戦いをはじめ、各地を転戦する。北条家の北条五色備では、黄備えを担当する。天文10年(1541年)、氏綱が死去して北条氏康が家督を継いでも、その信頼が変わることはなかった。… |
上杉景虎 (カテゴリ 北条氏康の子女) 北条氏康の七男。母は遠山康光の妹。初めは北条 三郎(ほうじょう さぶろう)と名乗ったと推定される。のちに上杉謙信の養子になり、その初名である「景虎」を名乗った。 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたという。戦国期には相模国の後北条氏… |
2017, pp. 88・163. ^ a b 浅倉直美 著「北条家の繁栄をもたらした氏康の家族」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年、41頁。 ^ 『来連川文書』戦国遺文後北条氏編4463 ^ 黒田 2017, pp. 89. ^ 黒田 2017… |
北条氏康が作らせた、一族・家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳。原題は不明で、「北条家分限帳」、「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれる。全1巻。 原本は伝存せず、江戸時代の写本が知られる。氏康期にあたる永禄2年(1559年)の奥書をもつ。後北条氏… |
河越城の戦い (カテゴリ 北条氏康) しかし、氏綱が没し、跡を継いだ嫡男北条氏康は継承早々に一大危機を迎える。天文14年(1545年)7月下旬、今川義元が関東管領の上杉憲政と内通して背後から挙兵、駿河の北条領に侵攻する。氏康は駿河に出陣するものの武田氏までもが出陣してきたために状況は不利であり、更… |
国府台合戦 (カテゴリ 北条氏康) 2011-04-08 ^ 黒田基樹「北条氏綱論」『伊勢宗瑞』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二一巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-200-1。 ^ 千野原靖方 2004, p. 93. ^ 長塚孝「氏康と古河公方の政治関係」黒田基樹編 『北条氏康とその時代』 戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究… |
第3巻『足利満兼とその時代』2015年 第4巻『足利持氏とその時代』2016年 第5巻『足利成氏とその時代』2018年 『北条氏年表 宗瑞・氏綱・氏康・氏政・氏直』高志書院 2013年 『北条氏康の子供たち』浅倉直美共編 宮帯出版社 2015年 『武田氏家臣団人名辞典』柴辻俊六、平山優、丸島和洋共編 東京堂出版… |
小田原城 (カテゴリ 後北条氏) が備わっており、永禄元年(1558年)に小田原に入った古河公方足利義氏が氏康邸を宿舎としていたことが知られている。 天正18年(1590年)豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大… |
北条 氏繁(ほうじょう うじしげ)/北条 康成(ほうじょう やすしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。福島正成の子とされる北条綱成の嫡男。玉縄城主、後に岩槻城城代、鎌倉代官なども務めた。 天文5年(1536年)、後北条氏の家臣・北条… |
父・晴氏が北条氏康との河越城の戦いで戦って敗北したのち、天文17年(1548年)に晴氏は長男である足利藤氏を後継者とした。だが、これに危機感を抱いた氏康は、梅千代王丸と母親の芳春院を北条領に連れ出そうと画策している。 天文20年(1551年)12月、晴氏と氏康の和睦が成立したが、氏康… |
永禄3年(1560年)、長男の三郎(小机衆を束ねた北条時長と同一人物説あり)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また甥にあたる、北条氏康の弟・北条氏尭を小机城主とした。その後ほどなくして、氏尭が没した。 永禄4年(1561年)3月の曽我山における上杉謙信との合戦の後、合戦で戦功のあった大藤式部丞を賞するように氏康・氏政らに進言した(『大藤文書』)。… |