「享徳の乱」の検索結果 - Wiki 享徳の乱
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享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉… |
享徳(きょうとく、(旧字体:享德)は、日本の元号の一つ。宝徳の後、康正の前。1452年から1455年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。 宝徳4年7月25日(ユリウス暦1452年8月10日) 三合の厄を避けるため改元 享徳4年7月25日(ユリウス暦1455年9月6日)… |
文明 (日本) (カテゴリ 日本の元号) 古河公方足利成氏と関東管領上杉顕定が和睦し、享徳の乱発生以来「享徳」の元号を使い続けた古河公方支配地域における元号が「文明」に改められる。 14年2月4日(1482年2月21日) - 足利義政が東山に慈照寺観音殿(銀閣寺)の造営を開始。 14年11月27日(1483年1月6日) - 室町幕府と古河公方足利成氏が正式に和睦、享徳… |
古河公方 (カテゴリ 千葉県の歴史) の処分を幕府に訴えたが実現しなかった。享徳元年(1452年)、管領が細川勝元に代わると、幕府の対東国政策も変化し、関東管領の取次がない書状は受け取らないなど、鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとった。 享徳3年(1454年)、成氏による関東管領上杉憲忠の謀殺をきっかけとして享徳の乱が勃発する。享徳… |
の支配を認めた。しかし、京極騒乱は収まらず政経は抵抗を続け、幕府も後に態度を翻して近江出兵を強行したり(長享・延徳の乱)、乙童子丸から家督を取り上げ政経に与えたりしていた。美濃国でも妙椿没後に実権を握った甥の妙純と利藤が争ったり(文明美濃の乱)、成頼の… |
鎌倉公方 (カテゴリ 日本の歴史関連のスタブ項目) の乱によって鎌倉府は消滅し、古河公方は公方と近習(鎌倉府奉公衆の後身)が政務を行う体制に規模を縮小させたものの、享徳の乱終結後は関東管領とともに関東地方を支配する形態(「公方-管領体制」)を曲がりなりにも1570年代まで継続させており、北条氏が関東管領の権限を事実上掌握したあとも、関東地方の支配者としての権威を保ち続けていた。… |
足利成氏 (カテゴリ 下総国の人物) の政氏の名前も前将軍・義政から一字を拝領した。成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。しかし、その後も古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など不安定な状態が続き、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。 長享3年(1489年)の文書に政氏の… |
関東管領 (カテゴリ 関東地方の歴史) 文安6年/宝徳元年(1449年)、足利持氏の子・成氏が第5代鎌倉公方となり、鎌倉府が再興。鎌倉公方と関東管領の対立も再発し、享徳3年(1454年)に成氏は時の関東管領、上杉憲忠を暗殺した。享徳4年(1455年)、成氏は上杉方についた幕府の援軍、駿河守護今川範忠に鎌倉府を追われるが、古河を座所として古河公方と名乗った(享徳の乱… |
古河府 (カテゴリ 関東地方の歴史) 古河府(こがふ)は、室町時代・戦国時代に古河公方の政治権力を担った組織である。享徳の乱により関東における戦国時代が始まったときに、鎌倉府の遺産を継承して成立した。 享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏は鎌倉から下総・古河へ根拠地を移し、古河公方と呼ばれることになった。このとき多くの… |
イングランドでランカスター派とヨーク派の抗争が始まる(薔薇戦争)。( - 1485年) 1月15日(享徳3年12月27日) - 鎌倉公方足利成氏、関東管領上杉憲忠を謀殺。享徳の乱はじまる。 (享徳4年6月16日) - 駿河守護今川範忠の軍勢が鎌倉を占領、成氏は下総古河に逃れる。(古河公方) (康正元年8月27日) -… |
の研究 第一一巻〉、2013年。ISBN 978-4-86403-084-7。 植田真平 編『足利持氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二〇巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-198-1。 一色時家(一色持家) 牛久保城 大和永享の乱 享徳の乱 永享記 -… |
峰岸純夫(2012): 享徳の乱と里見義実 大地震が戦乱発生の契機に 義実は美濃里見氏の養子か ^ 行谷佑一(2013) (PDF) 行谷佑一,矢田俊文(2013):[講演要旨]享徳三年(1454年)に奥州を襲った津波, 歴史地震, 第28号, 167. ^ 石橋克彦, 2015, [講演要旨]1454(享徳三)年に奥州に大津波をもたらした地震について… |
山内上杉家 (カテゴリ 室町・安土桃山時代の武家) の傘下に入ると、義人の従兄の上杉憲実は足利義教の傘下に入り、義人と対決した。 しかし、永享10年(1438年)永享の乱を境に鎌倉公方家との対立が決定的となり、その後の享徳の乱では事実上の敗北を喫してしまう。さらには、文明7年(1475年)に始まった長尾景春の乱を契機に、憲顕の… |
扇谷上杉家 (カテゴリ 室町・安土桃山時代の武家) 鎌倉公方と関東管領の対立は一時的に和睦が成立するが、享徳3年(1454年)鎌倉公方・成氏に山内上杉憲忠が暗殺され、全面戦争となった(享徳の乱)。上杉氏援軍の今川範忠に鎌倉を攻略された成氏は古河に拠点を移し古河公方と呼ばれた。第8代室町将軍・足利義政は成氏を室町幕府への反逆とみなし関東管領方に加担して異母兄の… |
のは、余りの長い戦争に耐え切れなくなった領国で不穏な動きが相次いだからである。結果、応仁の乱は首都・京都を焦土としただけで何ら勝敗を決することなく終結したのである。だが、応仁の乱をきっかけにした戦闘は乱終結後も地方へと拡大し、関東の享徳の乱も更に10年近く戦いが継続した。この一連の… |
太田道灌 (カテゴリ 15世紀の軍人) どうかん)は、室町時代後期に関東地方で活躍した武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城し、武将としても学者としても一流という定評があった。 以降、本項では便宜上「道灌」の呼称を使用する。… |
旧暦11月27日は旧暦11月の27日目である。六曜は先勝である。 文明14年(ユリウス暦1483年1月6日) - 室町幕府と古河公方足利成氏との和議が成立して、関東地方で1455年以来続けられた内乱(享徳の乱)が終わる。 天文18年(ユリウス暦1549年12月15日) - 三河の松平領が今川義元の支配下となり、竹千代(後の徳川家康)が今川の人質として駿府へ出立… |
鎌倉府 (カテゴリ 関東地方の歴史) の思惑から新たな鎌倉公方を必要としたのである。しかし、対立は解消されないまま、成氏は幕府および関東管領・上杉氏と対立し、享徳3年(1454年)12月に始まった享徳の乱にて、鎌倉を離れ下総・古河に移座した。崩壊した鎌倉府は古河公方・古河府に継承される。 鎌倉府の… |
上杉房定 (カテゴリ 室町時代の人物) ふささだ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての守護大名。越後国・信濃国守護。越後上杉家6代当主。 15世紀後半の約46年という長きにわたって越後を支配し、関東で享徳の乱や長享の乱を戦う過程で守護領国を完成させた。 永享3年(1431年)、上条上杉家の上杉清方の子として誕生。… |
鎌倉大草紙 (カテゴリ 室町時代の歴史書) 上巻には上杉憲春の諫死事件に始まり、伊達政宗の乱・上杉禅秀の乱・小栗満重の乱、甲斐武田氏の内紛を扱い、中巻は永享の乱・結城合戦を扱い、下巻は享徳の乱を扱って臼井城の攻防で締めくくられている。 ^ 『新編埼玉県史 資料編8 中世4』のように上巻と下巻をそれぞれ2つにわけ、全5巻として記述されることもある。… |