「四・一六事件」の検索結果 - Wiki 四・一六事件
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四・一六事件(よんいちろくじけん)は、1929年4月16日に行われた日本共産党(第二次共産党)に対する検挙事件のことを指すが、1929年(昭和4年)に行われた一連の検挙事件を総合して言うこともある。 1928年(昭和3年)に起きた三・一五事件以後、日本共産党は検挙を逃れた渡辺政之輔、鍋山貞親、佐野… |
四・一六事件では地下党員を中心に起訴339名が検挙され、またそれまで検挙を免れていた佐野学・鍋山・三田村・市川らが検挙され、党中央部はいったん壊滅した。 獄中・獄外両指導部の分立 四・一六による壊滅以降の共産党指導部は、「三・一五 - 四・一六… |
大西十寸男 (カテゴリ 人民戦線事件の人物) 年には日農総本部書記となり、1927年(昭和2年)に日本共産党に入党。三・一五事件、四・一六事件で検挙された後に共産党から離党し、全国農民組合総本部書記を歴任。一方で労農派の立場から農民運動や左翼運動を指導し、人民戦線事件で検挙された。 戦後、日本農民組合の再建に関わり、1947年(昭和22年)2月… |
1924年(大正13年)5月に創刊。日本共産党による発行であり、事実上の機関誌としての役割を果たしていた。表向きの発行所は「マルクス協会」あるいは「希望閣」となっていた。 四・一六事件直前の1929年(昭和4年)4月1日に刊行された第56号が最終号となった。 西雅雄 水野成夫 志賀義雄 山川均 福本和夫 市川正一 渡辺政之輔 志賀義雄… |
武装共産党 (「四・一六」以後の党再建の節) ある(したがって公式の名称ではなく、現在の日本共産党は党史記述においてこの呼称を採用していない)。 中央委員は、田中清玄、佐野博、前納善四郎。 四・一六事件後、第2次共産党の幹部が根こそぎ逮捕されてしまったため、1929年7月、田中清玄が23歳の若さで、日本共産党の中央委員長になる。そして、佐野博、… |
事件に連座、軍事教練反対などの運動を指導、退学処分になる。 1927年1月、産業労働調査所に入り機関誌『インターナショナル』の編集発行人。1927年10月、労働農民党に入党、本部書記。1928年7月、日本共産党に入党。 1929年4月、四・一六事件… |
警察)のスパイにそそのかされ、赤色ギャング事件を起こしたという一説もある(岩波書店編集部編『近代日本総合年表』1968年11月、292頁)。 戦前の日本では、日本共産党は治安警察法や治安維持法に違反する非合法組織であり、たびたび一斉摘発を受けた。四・一六事件後、党の非公然活動を技術的側面で支援し、警… |
参画するなどの活動を行った。党再建(第二次共産党)後、徐々に党内で頭角を現し、佐野学とならぶ中心的幹部として三・一五事件以後の党組織の再建に従事した。 しかし、1929年、四・一六事件で警察に検挙され市ヶ谷刑務所に収監。1933年、獄中で佐野とともに転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を出した。これは… |
)が設けられた。同部長に平田勲が就き、三・一五事件、四・一六事件を指揮したのを嚆矢とする。その後、平田は、佐野学、鍋山貞親らの転向を演出した。1928年7月、裁判所職員定員令改正により官制上で「思想検事」が正式に誕生した。 これら事件の前、京都学連事件では、林頼三郎司法次官、小山松吉検事総長、各控… |
嫌われ監察官 音無一六 嫌われ監察官 音無一六2 嫌われ監察官 音無一六3 嫌われ監察官 音無一六4 嫌われ監察官 音無一六5 嫌われ監察官 音無一六6 【金曜8時のドラマ】嫌われ監察官 音無一六(連続ドラマ) BSテレビ東京 嫌われ監察官 音無一六 嫌われ監察官 音無一六2 嫌われ監察官 音無一六3 嫌われ監察官… |
二次日本共産党)からの転向者による思想運動である。名称の由来はコミンテルンから離脱した日本独自の社会主義運動という趣旨による。 1933年6月、四・一六事件により獄中に囚われていた(第二次)日本共産党の最高指導者・佐野学および鍋山貞親が「共同被告同志に告ぐる書」を発表し転向を表明すると、この声明を指… |
1928年4月10日、三・一五事件による弾圧の一環として無青が解散させられ、再建活動が続いたものの打ち切られて、非合法組織(共青)拡大強化・合法組織(無青)不要へ方針転換した。1929年の大弾圧(四・一六事件)直後の4月25日、中央機関紙「共産青年」を創刊。4ページ建… |
日本共産党(第二次共産党)に対する一斉検挙(四・一六事件)。 6月1日 - 中国南京での孫文慰霊祭に犬養毅、頭山満が国賓待遇で参列。 6月3日 - 日本政府、中華民国国民政府を承認。 6月10日 - 拓務省設置。初代拓相は田中首相の兼摂。 6月24日 - 朝鮮疑獄事件発覚。 6月26日 - 枢密院、不戦条約に関する留保宣言つき批准案可決。… |
想専門」(通称。思想部)が東京地方裁判所検事局に設けられた際には、同局検事正 塩野季彦を次席検事として支え、平田勲思想部長を通じて、三・一五事件、四・一六事件の実質的指揮を執り、思想検事として思想・言論を対象とした治安維持法適用に関わった。 1941年(昭和16年)、検事総長となる。1943年(昭… |
を受けていた人々であった(福本イズムの提唱者である福本和夫自身が解党派に加入したか否かに関しては異なる見解が存在する)。 水野らは三・一五および四・一六事件の公判で統一被告団からの分離を求め、1930年保釈出獄した。そして彼らは「日本共産党労働者派」を正式に結成し中央委員会を組織、共産党に対抗し独自… |
4月16日 - 共産党員一斉検挙(四・一六事件) 5月1日 - 東京市で午砲「ドン」が廃止。サイレンとなる。 5月1日、ベルリンで血のメーデー事件 6月4日 - 隅田川に厩橋完成 6月16日 - 北海道駒ヶ岳が爆発 6月17日 - 北海道駒ヶ岳が噴火 7月1日 張作霖爆殺事件責任者の処分発表。処分が軽すぎると天皇が田中義一首相を叱責。… |
合インターナショナル(プロフィンテルン)代表のカール・ヤンソンと接触し、鍋山貞親とともに朝鮮を経由して帰国、いっしょに最高幹部のアジトに住んだ。四・一六事件でほとんど幹部が逮捕された後、佐野は友人の佐多の所に匿われ、コミンテルンとの連絡法を知り、党本部の状況を知る唯一の人物となった。田中と連絡がつい… |
1931年(昭和6年)1月、風間丈吉とともにソ連から帰国すると、党中央委員として地下活動を行う。当時の共産党は非合法政党ゆえ三・一五事件や四・一六事件など、官憲からの弾圧が強まっていた時期であったが、紺野は岩田義道らと共に風間丈吉を中心とする新指導部(いわゆる「非常時共産党」)を立ち上げる… |
係わった事件には、シーメンス事件、三・一五事件、四・一六事件、東京市会疑獄事件などがある。三・一五事件では私有財産否定を要綱に掲げる秘密結社共産党に戦後に至るまで再起できない程の壊滅的打撃を与え、さらに、司法省行刑局長から司法大臣時代に関わった帝人事件… |
日本労働組合全国協議会 (沿革と事件の節) た後、左翼組合が再結集して1928年12月25日全国代表者会議を開き、全協準備会を結成し非合法下ではあるものの事実上発足した。予定した創立大会は四・一六事件のため開けなかった。委員長は奥村甚之助(後に前納善四郎ら)。 1929年7月、田中清玄が日本共産党の中央委員長に選ばれ、警察当局の"白色テロ"に… |