「北畠顕家」の検索結果 - Wiki 北畠顕家
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北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の南朝公卿・武将。『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男。主著に『北畠顕家上奏文』。南朝従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍、贈従一位右大臣。 後醍醐天皇側近「後の三房」のひとり北畠親房の子として、前例のない数え14歳(満12歳)… |
北畠庶流の筆頭であったが、木造御所の官位は北畠宗家・多芸御所を上回ることもあり、度々宗家と対立した。そのため、田丸御所・坂内御所・大河内御所の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内氏は筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場にあった[要出典]。 また、奥州・津軽には、北畠顕家の子孫説や北畠顕… |
北畠神社(きたばたけじんじゃ)は、三重県津市美杉町上多気にある神社。国の史跡「多気北畠氏城館跡」に鎮座し、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能を主祭神とする。建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持つ。 由来書によれば、北畠具房の4代孫鈴木孫兵衛家次が寛永20年(1643年)3月、旧縁の地に… |
南北朝時代 (日本) (北畠顕家の戦死の節) 北畠顕家(北畠親房の子)は、後醍醐天皇や父の北畠親房の救援要請に応じ、12月、杉本城の戦いで斯波家長を破り、鎌倉を征服した。次いで、京都奪還を目指し、翌年1月に美濃国(現在の岐阜県)で青野原の戦いで幕将土岐頼遠を破るも、北陸の新田義貞との連携に失敗し、京への直進を諦める。 顕家… |
越前国で金ヶ崎城が落城する。 3年 新田義貞、北畠顕家らが敗死する。 北畠親房が義良親王(後村上天皇)・宗良親王を奉じて東国へ向かう途中に嵐に逢い、親房は関東に漂泊する。 元年 名和長年、結城親光、千種忠顕、楠木正成、楠木正季、後伏見天皇 3年 吉田定房、恒良親王、新田義貞、北畠顕家 4年 後醍醐天皇 ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。… |
叡山へ逃れる。足利方は新田義貞や楠木正成、陸奥国より駆けつけた北畠顕家により駆逐される。 2月、足利方が摂津国打出浜、豊島河原などで敗北し、九州へ敗走する。延元に改元。 3月、足利方は筑前国多々良浜の戦いで菊池武敏らに勝利する。北畠顕家らが陸奥へ戻る。 4月、足利方は仁木義長や一色範氏らを九州へ残して再び上京する。… |
1月16日(建武4年/延元2年12月25日) - 北畠顕家が斯波家長を破り、鎌倉を占拠する(杉本城の戦い)。 2月17日(暦応元年/延元3年1月28日) - 北畠顕家が土岐頼遠を破る(青野原の戦い)。 6月10日(暦応元年/延元3年5月22日) - 高師直が北畠顕家を敗死させる(石津の戦い)。 8月17日(暦応元年/延元3年閏7月2日)… |
建武2年(1335年)12月、後醍醐天皇の側近の北畠親房および北畠親房の長男の北畠顕家や伊達行朝をはじめとする陸奥将軍府の武将達と供に陸奥国多賀城を進発し、足利尊氏を追討するため京都方面へ軍を進めた。翌年の延元元年/建武3年(1336年)1月、義良親王および陸奥守北畠顕家… |
北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ)は、南北朝時代の公卿。北畠親房の次男。北畠顕家の弟。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。また土御門入道と号す。南朝で従一位・右大臣に任ぜられたともされる。 延元元年/建武3年(1336年)に伊勢国において挙兵し、後醍醐天皇の遷幸を援助、伊勢国司に任官される。『太… |
北畠 - 王子町3丁目8番地にある北畠公園に所在する大名塚を、江戸時代の国学者・並川誠所が、南北朝時代の石津の戦いで討ち死にした南朝側の公家で、武将でもあった北畠顕家の墳墓と享保年間に比定したことにより、明治維新後、地元の有志が、この辺り一帯を北畠顕家戦没の地として顕彰し、北畠顕家… |
生母不詳 長男:北畠顕家(1318-1338) 次男:北畠顕信(1320?-1380?) 三男:北畠顕能(1326-1383) 女子:後村上天皇女御 女子:護良親王室 女子:冷泉持定室 志茂田景樹『南朝の日輪 北畠親房』秋田書店、1991年、ISBN 4253002994 童門冬二『小説 北畠親房… |
都の六波羅探題を滅亡、新田義貞らにより鎌倉幕府が滅亡する。 6月、後醍醐天皇が入京し、記録所を復活させるなど建武の新政を開始する。 10月、北畠親房・北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ向かう。 12月、足利直義が成良親王を奉じて鎌倉へ向かう。 北条氏残党の反乱が活発化する。 日野資朝… |
北畠顕家-北畠顕成-北畠親成の一族に「鎮守府将軍」と注が為されていることから、親成の子孫である可能性が指摘されている。 江戸時代に作成された系図・由緒書の多くは鎮守府将軍北畠顕家の血を引く一族としているが水戸藩で編纂された『大日本史』では北畠顕家の弟の顕信を子孫としている。顕家… |
南北朝時代の公卿、北畠顕家の尊号、子孫一門は袰綿御所と称された。 浪岡御所 - 北畠顕家の後裔である浪岡北畠氏の尊号、子孫一門は川原御所と称された。 多芸御所(霧山御所) - 南北朝時代の公卿、北畠顕家およびその子孫である伊勢の公家大名、北畠氏の尊号 滴石御所 - 北畠顕成の子北畠顕忠の尊号(御所ダムの由来)… |
北畠 顕能(きたばたけ あきよし)は、南北朝時代の公卿・武将。准三后北畠親房の三男で、顕家や顕信の弟とするのが通説だが、一説には中院貞平の子で、親房の養子になったともいう。建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り、同国司に任じられた後、多気を拠点に退勢著しい南朝軍事力の支柱として武家方に対抗した。伊勢北畠氏の祖。… |
山とともに大阪有数の文教地区として知られる。伝北畠顕家の墓(北畠公園内)や顕家を祀った阿部野神社がある。 住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、北畠1−8−59の地点で42.6万円/m2となっている。 北畠顕家の墓のある北畠公園に道路を挟んで隣接した地域。街路はカーブが… |
ンドの霊鷲山にちなんで円仁によって名付けられたと伝わる。円仁が霊山寺を創建したことで東北山岳仏教の聖地となった。 南北朝時代には北畠顕家の拠点となり、1337年8月に顕家が西国に出陣した後、1347年に霊山城が落城したことで歴史の表舞台から姿を消した。 現在は遊歩道がよく整備されて登りやすい山とな… |
石津の戦い (カテゴリ 北畠顕家) 北畠顕家と北朝・室町幕府の執事高師直・師泰兄弟が戦った合戦。石津合戦・堺浦合戦・堺浜合戦などの異名がある。南朝は敗退し、顕家ら主だった武将が多く戦死した。 延元元年/建武3年(1336年)暮れに、足利尊氏に対抗するために京都を脱出して吉野に逃れた後醍醐天皇は、陸奥国多賀城にいる北畠顕家… |
言い伝えに寄れば南北朝時代に北畠顕家が霊山城を築城した折り、北畠顕家にしたがって比叡山延暦寺より来た僧兵によって霊山にもたらされたという。 ただし、この言い伝えに歴史的な確証はなく、後述の清原森光によって霊山にもたらされたというのが史実である可能性が高い。(霊山は南北朝期の北畠顕家… |
豊島河原合戦 (カテゴリ 北畠顕家) 決着がつかなった。しかし同日夜に正成は陣を引いたため、尊氏は合流した援軍を従えて翌2月11日に攻め上り新田義貞・北畠顕家両軍と豊島河原(瀬川)で合戦を繰り広げた。その結果尊氏側は新田・北畠軍に敗れ去り、同月12日に兵庫へ退陣した。その後尊氏は周防・長門の援軍と共に九州へ落ち延びて行ったと書かれている。… |