織戸 学(おりど まなぶ、1968年12月3日 - )は、千葉県船橋市出身で神奈川県在住のレーシングドライバー。MAX ORIDOとしても知られる。愛称は「オリダー」「モン吉」。A型。
織戸 学 おりど まなぶ | |
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生誕 | 1968年12月3日(55歳) 日本、千葉県 |
職業 | レーシングドライバー |
配偶者 | あり |
公式サイト | MAX織戸公式ウェブサイト |
補足 | |
織戸 学 | |
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YouTube | |
チャンネル | |
活動期間 | 2016年- |
ジャンル | モータースポーツ |
登録者数 | 10万人 |
総再生回数 | 15,362,772回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2023年10月28日時点。 |
自動車整備の専門学校を卒業した後、自動車雑誌『CARBOY』主催のドリフトコンテストで頭角を現し、初代グランドチャンプとなった後に坂東正明率いる坂東商会に入社し、21歳の1991年より富士フレッシュマンレースのNA1600クラスでレーシングドライバーとしてデビューした。マシンはAE86レビンのN2仕様で、周囲はベテランドライバーばかりだったため、よく目の敵にされたとビデオオプション[要文献特定詳細情報]で語っている。翌1992年にはシリーズチャンピオンを獲得。
1993年にはフレッシュマントロフィーレースinSUZUKAのN2-1600クラスにAE92レビンのN2仕様で参戦。スポット参戦ながらシリーズ3位を獲得。
1994年からはスーパーシルビアN2レースに参戦。1995年と翌1996年に連続してシリーズチャンピオンを獲得。
デビュー当初は土屋圭市を継ぐ「ポストドリキン」とも呼ばれ[要出典]、横浜ゴムの開発ドライバーを務めていた土屋がブリヂストンに移籍した際は、その後継ドライバーとして織戸が抜擢される。
全日本GT選手権(JGTC、現 SUPER GT)には1996年より参戦し、最初はGT300クラスで日産・シルビアを駆り、翌1997年にはシリーズチャンピオンに輝いた[要検証 ]。
その後、2000年には土屋エンジニアリングよりGT500クラスに参戦。2002年サードに移籍し、2003年は第7戦にてGT500初優勝を飾った。2004年に再び土屋エンジニアリングに復帰し、2005年には開幕戦で優勝を飾った。2006年は、土屋エンジニアリングを立ち上げた土屋春雄の息子である土屋武士とコンビを組んだ。
2008年より、再びRACING PROJECT BANDOHからGT300クラスに参戦し、第5戦の菅生で自身初のポールポジションを獲得。第7戦もてぎでは予選での車両規定違反で最後尾スタートを強いられたが、そこから追い上げを見せて25位スタートからの逆転優勝を飾った。この最後尾スタートからの優勝は、JGTC時代も含め初の快挙であった。2009年は開幕戦で優勝を飾ると、その後も安定した成績を収め、12年ぶりのシリーズチャンピオンに輝いた。第8戦でGT参戦通算100戦目を迎えた。。 2011年にJLOCに移籍し、ほぼ毎シーズン優勝を含む表彰台を獲得し安定した速さを見せた。しかしタイトル争いに絡むことはできず、2018年3月、所属していたJLOCから離脱したことを自らのFacebookで明らかにした。同月19日、GT500クラスに「LEXUS TEAM WedsSport BANDOH」として参戦するRACING PROJECT BANDOHのエグゼクティブアドバイザーに就任することが発表された。また、横浜タイヤを知り尽くしていることを買われ、同年第5戦富士500マイルにてaprの第3ドライバーとしてトヨタ・プリウスをドライブした。
JGTCにデビューした1996年からN1耐久(現 スーパー耐久)にも参戦し、2005年にはSTクラス1のシリーズチャンピオンに輝いている(TEAM ADVAN DENAG #25 ADVAN DENAG GT3/ポルシェ・911GT3)。
D1グランプリ(D1GP)では、シリーズが始まった2001年から2004年までは、土屋圭市・鈴木学と共に審査員を務めていたが、2005年から選手として参戦を開始した。マシンは、トヨタ・スープラ (JZA80) を使用。ボディーやロールケージは土屋エンジニアリングが、エンジンのチューニングはオートプロデュースBOSSが手掛けた。AE86やシルビアなどD1GPの主流である車種に比べ車重が重いため、SUPER GTのGT500マシンから流用したカーボン製のドアやリアハッチを使用するなどして軽量化を図っている。また、出力も当時のD1GPマシンとしては非常に高い680馬力までパワーアップされている。
2005年は、開幕戦アーウィンデール・スピードウェイは、マシンが未完成であった影響もあり単走1回戦敗退に終わった。しかし、第2戦お台場と第3戦SUGOでは追走進出を果たした。さらにHKSのボアアップキットでエンジン(2JZ-GTE)の排気量を3,000ccから3,400ccに増やし、ホリンジャー製のシーケンシャルミッションを新たに搭載した第5戦エビスでは、1回戦を100点で通過し、追走でも三木竜二、谷口信輝、手塚強といった有力ドライバーを下して準優勝を果たした。シリーズ12位でシーズンを終えた。
2006年・2007年は参戦を休止し、2008年にはSUPER GTと同じRACING PROJECT BANDOHから、マシンもGTと同じレクサス・IS350をベースとした車両でシリーズに復帰。第5戦のオートポリスにのみスポット参戦したが、マシントラブルによりリタイアとなった。2009年は、GTでのドリフトデモランやDtoDなどで使用していたアリストをD1のレギュレーションに合わせ参戦したが、第7戦の4位が最高でシリーズ15位に終わった。
2010年には、マシンをスープラに戻し参戦。第4戦では準優勝を果たし、年間シリーズ8位となった。2011年もスープラで参戦。第3戦オートポリスではD1GP初優勝を飾った。
2012年は、トヨタ・86にマシンチェンジ。エンジンはノーマルのFA20からレクサス・IS Fに搭載されている2UR-GSEをチューニングしたものに換装されている。開幕戦こそ完成したばかりの状態ということもありエンジントラブルが出たものの、徐々にマシンの熟成が進みコンスタントにポイントを獲得、シリーズ16位でシーズンを終えた。
2013年はマシンはそのままであるが、エンジンをシボレー・コルベット用のV8エンジンへと変更した事で更なるパワーアップを行っており、第4戦では準優勝を果たした。2014年も86で参戦し、シリーズ13位。
2015年は、第4戦エビスでシーズン初優勝を飾った。10月15日、自身のブログにてD1グランプリ引退を表明。最終戦では86がエンジンブローで走れなくなりリタイアしたものの、翌日開催されたワールドチャンピオンズのフィナーレでは、2005年シーズンに使用していたスープラで「メモリアル追走」を披露した。
2004年にはル・マン24時間レースにチョロQレーシングよりポルシェ・911で黒澤治樹・西沢和之と参戦、総合12位/GTクラス2位に入った。
2013年2月には、横浜市都筑区にプロ用ドライビングシミュレーターを備えたレーシングドライバー向けトレーニング施設として「130R YOKOHAMA」をオープンした。また、富士スピードウェイなどでレーシングドライバー向けのトレーニングを開催している。
86/BRZレースにも開催初年度の2013年から漫画『クローズ×WORST』とのコラボレーションであるTOMMY‘SRACING withクローズエクスプロードから参戦。未経験者ばかりのチームであったが、初年度から優勝を果たした。さらに男性音楽グループONE☆DRAFT(徳間ジャパン)とのコラボを実現し『ONE WAY』をチーム応援オフィシャルソングとして迎えるという企画も実現している。2015年からはタイヤ販売店のK-oneのチームであるK-one Racingに移籍し、2021年現在も参戦を継続している。
2015年、2019年、2021年には全日本ラリー選手権にK-one Racingより参戦している。
チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 | |
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2004年 | チョロQレーシング | 黒澤治樹 西澤和之 | ポルシェ・911 GT3RS | GT | 322 | 12位 | 2位 |
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
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