綏遠省(すいえんしょう)は、中華民国にかつて存在した省。
中華民国 綏遠省 | |
← 1928年 - 1949年 → | |
簡称:綏
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綏遠省の位置 | |
簡体字 | 绥远 |
繁体字 | 綏遠 |
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拼音 | Suíyuǎn |
カタカナ転記 | スイユエン |
国家 | 中華民国 |
行政級別 | 省 |
政府所在地 | 帰綏県1928-1947 帰綏市1947-1949 |
建置 | 1928年 |
消滅 | 1949年 |
面積 | |
- 総面積 | 329,397 km² |
人口 | |
- 総人口() | 171 万人 |
清代は漠南蒙古の一部であり、綏遠将軍が駐留して山西省帰綏道に属していた。
中華民国が成立すると1914年(民国3年)、北京政府は山西省帰綏道の12県及び内モンゴルの烏蘭察布盟・伊克昭盟に綏遠特別区を新設、綏遠都督が各県盟の行政事務を統括することと定められ、都督公署は帰綏県に設置された。 1914年(民国3年)6月、豊鎮・涼城・興和・陶林の4県が察哈爾特別区域に移管されている。
1928年(民国17年)9月5日、国民政府は党中央政治会議第153回会議で綏遠特別区域を綏遠省として再編することを決定、10月20日に綏遠省政府が正式に発足し、初代省政府主席には徐永昌が就任した。1929年(民国18年)1月1日、察哈爾省より豊鎮・涼城・興和・陶林の4県が移管され行政区画がほぼ確定している。しかし省成立後まもなく蒙古族と省政府の間で省の行政主導権を巡る対立が続き、1936年には内蒙古の自治独立を目指すモンゴル族の一派が日本の関東軍の支援を受けた漢族の小軍閥と連携して綏遠省を占拠すべく武装蜂起を起こすが鎮圧されるという擾乱が起きている(綏遠事件)。1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると省域の大部分は日本軍により占領され、省政府は伊克昭盟及び河套地区の一部を支配するに過ぎなくなった。1945年(民国34年)の日本の敗戦に伴い省政府による綏遠省全域の支配が再開したが、それも束の間中国共産党との内乱が始まり、1949年(民国38年)9月19日に省主席の董其武が共産党勢力に帰順するにおよんで、綏遠省における国民政府の施政権は完全に失われることになった。
中華人民共和国建国直前、下部に3市20県17旗を管轄した。(50音順)
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