ここでは、鉄隕石(隕鉄)を使用して鍛えた刀剣についてとりあげる。この刀剣の一般名称は未だ決まっておらず、「隕鉄刀」や「隕石の刀」などとも呼ばれている。
鉄隕石を使用して製作された刀剣は世界各地で見られ、日本では「流星刀」が知られている。
流星刀(りゅうせいとう)とは、明治時代に榎本武揚が刀工岡吉国宗に鉄隕石を使用して作らせた日本刀4振り(長刀2・短刀2)及びのちに作られた1振り(短刀)に名付けた称である。榎本は後に作られた1振り以外の経緯をまとめた論文「流星刀記事」を発表している。製作されるきっかけとなったのは、榎本武揚がロシア大使としてサンクトペテルブルクにおもむいていた時期に、ロシア皇帝の秘宝の中に鉄隕石で作られた刀があることに感動し、いつかは自身も鉄隕石を使用した刀を手にしたいと夢見たことから始まる。
1890年(明治23年)、富山県上市川上流において、漬物石を探していた発見者の手により採取される。その後、大きさのわりに重い石(22.7キログラム)であったため、調査された結果、隕鉄であるということが学術的に判明し「白萩隕鉄1号」と名付けられた。分析には農商務省地質調査所の近藤会次郎があたった。その報を聞いた榎本はポケットマネーで「白萩隕鉄1号」を購入した(なお、2年後の1892年には、同じ場所で「白萩隕鉄2号」も発見されている)。
榎本は刀工岡吉国宗に鉄隕石を使った日本刀の製作を依頼する。鉄隕石からは4キログラムほどの鉄が欠き取られて使用された。当初、隕鉄を使用して日本刀を製作することが初めてであった国宗は、普通の鉄と比べ、やわらかすぎる隕鉄の加工に苦労したとされ、氷川神社に祈願するなどした。苦労を重ねた結果、隕鉄70パーセントに玉鋼30パーセントの分量で混合し、鍛えあげることに成功した。こうして隕鉄を使用して鍛えられた流星刀が大小4振り製作され、その内、長刀の1振りは当時の皇太子(のちの大正天皇)に献上された。時に1898年(明治31年)のこととされる
残り3振りは榎本の子孫へ伝えられたが、短刀1振りは戦時中に紛失、長刀1振りは榎本が設立に関わった東京農業大学に、短刀1振りは隕石飛来の地である富山市天文台に寄贈、後に富山市科学博物館に収蔵されている。
専修大学教授の田口勇が刀工の法華三郎信次に依頼し、鋼を混ぜず、隕鉄のみの原料で製作された「隕鉄刀」がある。素材となった原料はアフリカのナミビアで発見された「ギボン隕鉄」である。隕鉄は10パーセント近いニッケルを含み、100万年に約1度の割合で徐々に冷えていく故に地球上では成りあがらない金属組織を有し、折り返し鍛錬は容易ではなく、法華も失敗の連続で諦めかけたが、「最後に、隕鉄が溶解するのを恐れず、思いきって温度を上げたら、やっと鍛着した。炎の色から判断すると、普通の鋼と違い、わずかな温度の違いで、鍛着したり、しなかったりする」とコメントを残した。
人類は製鉄技術が確立する前には鉄を多く含む隕石を原料に鉄器を作っていたと考えられており、工程などの検証を行うため、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に関市の刀工が協力し「天鉄刀」が3振り製作された。製作した26代藤原兼房は片刃と諸刃の短剣も製作している。
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