フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro, 1422年6月7日 - 1482年9月10日)は、イタリア・ルネサンス期のウルビーノ公国の君主である。傭兵隊長として活躍する一方、周囲に多くの文化人を集め、ウルビーノ宮廷に優雅なルネサンス文化を栄えさせた。フェデリーコ3世とも。
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ Federico da Montefeltro | |
---|---|
ウルビーノ公 | |
フェデリーコの肖像(ピエロ・デッラ・フランチェスカ作) | |
在位 | 1444年 - 1482年 |
出生 | 1422年6月7日 |
死去 | 1482年9月10日(60歳没) |
配偶者 | ジェンティーレ・ブランカレオーニ |
バッティスタ・スフォルツァ | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | モンテフェルトロ家 |
父親 | グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロ |
1422年、グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロの庶出の子として生まれた。
1433年、第3次ロンバルディア戦争(wars in Lombardy)のミラノ・ヴェネツィア戦において、父のグイダントーニオの敗戦と総司令官フランチェスコ・ブッソーネの解任の余波から、父のグイダントーニオがヴェネツィアとの契約を結ぶための人質としてフェデリーコはヴェネツィアに送られた。
ヴェネツィア時代には、総督フランチェスコ・フォスカリの支配下で、ヴィトリノ・ダ・フェルトレ(Vittorino da Feltre)の学校で幅広い教養を学んだ。フェデリーコは当時の名高い傭兵隊長の中で唯一学校を出た人物であった。また、フォスカリは先の第3次ロンバルディア戦争の影響で政治的には窮地の時期で、コジモ・デ・メディチもフェデリーコとは直接な接点はおそらくなかったと思われるがフィレンツェから追放されヴェネツィアに亡命している(共に英語版日本語版のウィキペディア参照)。
1438年、ミラノと契約していた傭兵隊長ニッコロ・ピッチニーノのもとで軍事的な修行を積んだ。第4次ロンバルディア戦争において、ミラノのヴェネツィアに対する大戦のブレア包囲に参加。このとき、ヴェネツィア総指揮官ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガが解雇され、ニッコロ・ピッチニーノと共にヴェネツィア戦を戦っている。「修行時代の残りは、ガッタメラタ、コッレオーニ、スフォルツァに対抗するロンバルディア陣営に勤務した」。
1439年、隣国のシギスモンド・マラテスタが父の領土を攻撃してきたため、帰郷して戦争に参加する。これ以降、シギスモンドとは長らくのライバルになる。
1442年、父グイダントーニオ死去。嫡子オッダントーニオがウルビーノ公位を継承した。
1444年、オッダントーニオは悪政により市民により城内の広場で殺害され、フェデリーコがウルビーノ公位を継承した。
先にフェデリーコはローマ教皇エウゲニウス4世によりマルケ獲得の戦いでフランチェスコ・スフォルツァを支持したため破門されていたが、1450年、教皇ニコラウス5世はこれを解除した。
また、フランチェスコ・スフォルツァのミラノ公昇格の祝賀の馬上槍仕合で右眼を失い、鼻を負傷した。
1451年、フェデリーコはナポリと対戦するフィレンツェと傭兵契約を結ぶ。これが傭兵将軍としての始まりである。隣国の傭兵隊長シギスモンドはナポリと契約するが裏切り、フィレンツェが有利になりナポリ王でもあったアラゴン王アルフォンソ5世と講和した。
1467年、バルトロメーオ・コッレオーニとモリネッラで戦った(Battle of Molinella)。「老コッレオーニが戦場に出た最後であり、最も騎士的作法の正しい二傭兵将軍の対戦として有名である。フェデリゴはヴェネチアに対するイタリア連合軍の司令官として出陣した。後にマキャヴェリが、この戦闘を、傭兵戦のいかさまぶりを嘲笑するために典型的な実例として掲げたものであるが―両傭兵軍は数時間に互って打ち合いをしたが一人も戦傷者がなかったと―、しかしこれは誤伝である。実際は双方共に数百人の戦死者があり、フェデリーコ自身あやうくその一人になるところであった。」。
因みにこの戦争は、フィレンツェのメディチ家のピエロの時代に反メディチ派がフェラーラと組んだことから発端とした戦争である。
1472年、前年のヴォルテッラ暴動事件(明礬(みょうばん)の利権をフィレンツェが得るためにロレンツォが大量の処罰を行った事件)の鎮圧のために、フェデリーゴ・モンテフェルトロが軍事司令官を務める。
1478年、パッツィ家の陰謀から派生した、ナポリ・教皇とフィレンツェ・ヴェネツィア・ミラノによるパッツィ戦争において教皇側の総司令官となる。今まで基本的にはメディチ家よりに傭兵を行っていたがシクストゥス4世らの手引きによるものと、モンテフェルトロなりの言い分(フィレンツェの介入が教皇領を妨げている)があり参戦している。しかし、それ以後は教皇側に就くことは無かった。
1481年、ロレンツォのフィレンツェと再び友好関係になる。
1482年、教皇の甥ジローラモ・リーアリオがフェラーラに侵攻したことから始まった戦争で、ヴェネツィアとシクストゥス4世に対して、フィレンツェ・ナポリ・ミラノ・マントヴァの連合軍の総指揮を執る。ロレンツォ・デ・メディチは出陣の際、わざわざフェデリーコを出迎えた。しかし、マラリアが蔓延し、部下を見殺しにできず自身もマラリアに罹り死去。
フェデリーコの跡を子のグイドバルドが継ぐが、病弱であり、1502年にチェーザレ・ボルジアの教皇軍が侵攻すると亡命した。その後、マントヴァに滞在し、チェーザレの失脚後にウルビーノ公として復帰した。グイドバルドの宮廷はバルダッサーレ・カスティリオーネの『宮廷人』の舞台としても知られる。
1437年にメルカテッロ・ドゥランテ領主バルトロメオ・ブランカレオーニの娘ジェンティーレ(1457年没)と結婚したが、子はいなかった。
1460年にペーザロ伯アレッサンドロ・スフォルツァの娘バッティスタ(1446年 - 1472年)と結婚、以下の子女をもうけた。
また、以下の庶子がいる。
|
|
This article uses material from the Wikipedia 日本語 article フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ, which is released under the Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 license ("CC BY-SA 3.0"); additional terms may apply (view authors). コンテンツは、特に記載されていない限り、CC BY-SA 4.0のもとで利用可能です。 Images, videos and audio are available under their respective licenses.
®Wikipedia is a registered trademark of the Wiki Foundation, Inc. Wiki 日本語 (DUHOCTRUNGQUOC.VN) is an independent company and has no affiliation with Wiki Foundation.