高嶋 弘之(たかしま ひろゆき、1934年5月18日 - )は、日本の音楽ディレクター・プロデューサー。高嶋音楽事務所代表。「ビートルズの日本での仕掛人」として有名。一男二女の父親で次女はヴァイオリン奏者・高嶋ちさ子。
たかしま ひろゆき 高嶋 弘之 | |
---|---|
生誕 | 1934年5月18日(89歳) |
職業 | 音楽ディレクター プロデューサー |
子供 | 一女・高嶋みち子 二女・高嶋ちさ子 |
親戚 | 兄・高島忠夫 義姉・寿美花代 甥・髙嶋政宏 甥・髙嶋政伸 |
兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立神戸高等学校を経て、早稲田大学第一文学部(演劇専修)を卒業。1959年東京芝浦電気(株)レコード事業部(のちの東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン)入社、洋楽ディレクターとしてスタート。1964年ビートルズの初代ディレクターとなり、訪日時にも担当。その後、邦楽担当となり和製ポップスで数々のヒットを作る。1969年退職。1970年(株)キャニオン・レコード取締役制作部長就任。1976年退職後、ポリグラム・グループ(現:ユニバーサルミュージック)のチャペル・インターソング(音楽出版社)社長に就任。高嶋音楽事務所を設立し、J-クラシックスの流れを作る。
1959年東京芝浦電気入社、レコード事業部に配属されディレクターとしてのキャリアをスタートさせる。翌1960年レコード事業部が分社化され東芝音楽工業(現・ユニバーサルミュージック傘下のEMI Records Japan→EMI Records)となったことに伴い同社に移籍し主に洋楽担当のディレクターとして活動する。
当時東芝音工は既に英EMIと提携関係にあり、EMI傘下のパーロフォンからデビューしたビートルズについても「イギリスでのデビュー時に『Love Me Do』のサンプル盤を聴いたが『こりゃ駄目だ』と思った」と述べている。「Please Please Me」に衝撃を受けビートルズの日本における仕掛人であり、シングル30枚など国内で様々な販促活動を行なった。その結果、ビートルズは日本においても大ヒットを連発し、高嶋も一躍その名を知られるようになる。
その後、邦楽部門に移りザ・フォーク・クルセダーズや黛ジュン、由紀さおり、ジローズなどのディレクターを手がけた。ちなみに由紀さおりのヒット曲を「夜明けのスキャット」と命名したのは高嶋である。
1970年、東芝音楽工業を離れてキャニオンレコード(現・ポニーキャニオン)の設立に尽力し、同社取締役制作部長に就任。1976年にはポリグラムグループに移籍し、チャペル・インターソング(音楽出版社)社長、ロンドンレコード副社長、ポリドール・レコード(日本法人)常務を歴任した後、1991年退職して高嶋音楽事務所を設立。おもにクラシック音楽のアーティストのマネジメントやプロデュース等を手がけている。
This article uses material from the Wikipedia 日本語 article 高嶋弘之, which is released under the Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 license ("CC BY-SA 3.0"); additional terms may apply (view authors). コンテンツは、特に記載されていない限り、CC BY-SA 4.0のもとで利用可能です。 Images, videos and audio are available under their respective licenses.
®Wikipedia is a registered trademark of the Wiki Foundation, Inc. Wiki 日本語 (DUHOCTRUNGQUOC.VN) is an independent company and has no affiliation with Wiki Foundation.