野村 昭子(のむら あきこ、1927年〈昭和2年〉1月2日 - 2022年〈令和4年〉6月29日)は、日本の女優。本名:増見 昭子(ますみ あきこ)。
のむら あきこ 野村 昭子 | |||||
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野村昭子(1962年) | |||||
本名 | | ||||
生年月日 | 1927年1月2日 | ||||
没年月日 | 2022年6月29日(95歳没) | ||||
出生地 | 日本・東京府東京市神田区 (現:東京都千代田区) | ||||
死没地 | 日本・東京都港区 | ||||
身長 | 157cm | ||||
血液型 | A型 | ||||
職業 | 女優 | ||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ | ||||
活動期間 | 1952年 - 2022年 | ||||
活動内容 | 1952年:劇団俳優座 入団 | ||||
配偶者 | 増見利清 (1956年 - 2001年死別) | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 『白い巨塔』 『家政婦は見た!』 『スウィート・ホーム』 『税務調査官・窓際太郎の事件簿』 | |||||
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身長157cm、体重64kg。血液型はA型。夫は、演出家の増見利清(2001年死去)。特技は、常磐津。薬剤師免許所持者。
東京市神田区(現:東京都千代田区)生まれ。「昭子(あきこ)」の名は神田明神に付けてもらったという。実家は医療器具の卸業を営み、裕福な家庭であった。
桜蔭高等女学校(現:桜蔭中学校・高等学校)、1946年に東京薬学専門学校(現:東京薬科大学)卒業。薬剤師として東京大学医学部附属病院に勤務していたが、演劇に魅せられる。父からは「鏡に自分の顔を10分間映すように」と諭されるも、10分間眺めたのちに「女優になります」と答え、1949年に劇団俳優座養成所の第1期生となる(同期は岩崎加根子)。
1952年に養成所を卒業し、そのまま劇団俳優座に入団。千田是也らに鍛えられ、「完璧に台本を覚えること」「NGを出さないこと」を信条としていた。
代表作の1つである『家政婦は見た!』で共演していた市原悦子は劇団時代の後輩であり、自宅も近かったことからプライベートでも親交が深かった。ほか、後輩の樹木希林、親子役でドラマ共演した山田邦子なども親交が深かった。石井ふく子からの信頼も厚く、『渡る世間は鬼ばかり』では、山岡久乃の後任ポジションを務め、晩年の代表作となった(なお、野村は山岡とは『夕陽カ丘三号館』、『ありがとう』第3シリーズ、『心』最終話などで共演しており、山岡の通夜・葬儀にも参列している)。泉ピン子とは40年来の交流があり、「野村ママ」と呼ばれて慕われていた。野村死去後には泉や山田などがマスコミに追悼コメントを発表している。
2011年5月10日、橋田賞特別賞を受賞。
愛犬家であり、自身が演じていた役柄(青山タキ)と同じ名前の「タッキー」というビション・フリーゼを飼っていたが、2018年に死亡(2019年3月12日に出演した『徹子の部屋』で語っている)。
夫との間に子どもはおらず、2001年の死別後は東京都内で独居生活を送っていた。
2022年6月下旬までは自宅付近で元気な姿を目撃されていたが、近隣住民から「野村さんの姿を見ていない」と警察に通報があったため、7月1日に親族と警察が自宅を訪問したところ、寝室で倒れていたところを発見され、死亡が確認された。95歳没。訃報は7月2日に明らかになった。警視庁麻布署によると外傷や荒らされた形跡はなく、関係者への取材で、死因は熱中症とみられることがわかった。後に死亡日は6月29日と発表された。
1945年(昭和20年)8月15日(水曜日)の第二次世界大戦終戦(日本の降伏)時、野村は18歳であった。戦争で苦痛な経験をして、終戦を知った後に自決(自殺)を考えたという。
当時、通学していた東京薬学専門学校女子部の教員から青酸カリをもらったのを(いつでも自決できるように)、自身の血液型と氏名を書いて縫い付けてあった胸ポケットに入れていた。昭和天皇によるラジオの玉音放送は、「ガガガいって、何て言ってるのか聞こえなかった」という。ただその後、薬専の教員が「諸君、いい時代が来た」と言った。その場にいた数人の生徒が「そんなひどいことを」と漏らした。そして、フラスコなど授業で使用していた器具などを屋上に持っていき、「死ぬならいいだろう」と壊していった。
その後、野村は(自決するために)皇居に向かった。その道中に、官庁で重要書類をドラム缶で焼却している様子などを目にした。二重橋の付近に辿り着くと、多くの人々が皇居の方向に正座して、履いている靴や下駄は脱いで盗まれないように前に置いて、頭を地面に伏せている様子を目にした。一番前に、サーベルを置いた軍人がいたが、数日後の新聞記事で自決したのを知った。その後、7~8人の同級生と目的地の上野駅を通り過ぎて日暮里駅に辿り着いた時に、電灯の明かりが灯っているのを見て、「あぁ、戦争が終わったんだ。」と終戦を実感したという(戦時中はアメリカ軍による空襲があり、電灯は使用禁止となっていた)。
その後、さよならも言わず同級生とも別れて、電車も動かないため徒歩で帰宅した。野村の父が経営する店舗は空襲で焼失してしまい、住居は借家であった。そして、野村の父が「おお、帰ってきたか」と言い、野村は「ただいま」と言った。すると、野村の母は「昭子のことだから、死んでると思ったの。お父さん、そう言ってたわ」と言ったという。
野村は自身の経験から、「私もやっぱり日本の中枢にいる方たちに、もうこんなバカな年とったおばあさんだけど、聞いてくださるなら私何日かかってでもそれはディスカッションしたいと思う。戦争をしてはいけない。みんな相当きれいな心でも、生き残るためには相当汚いことをするっていうことを言ってる。だから、そんな立派なことを言わなくっていいから、やっぱり死ぬ時に、私あんな悪いことしてしまった、あの人を裏切ってしまったという思いで死にたくないのだから、それはやってはいけない。」と語っている。
戦時中の自宅の防空壕は、電灯や七輪も備えて広さも8畳あるほどだったという。そこには、辞書も置いてあったという。これは女学校に通っていた時に、教員から「一生持てるような良い辞書を買いなさい」と言われたことがあったからだという。
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