濃姫: 日本の女性

濃姫(のうひめ / のひめ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。通説では、美濃の戦国大名である斎藤道三(長井秀龍)の娘で、政略結婚で尾張の戦国大名の織田信長に嫁ぎ、信長の正室になったとされるが、後述するように名前や呼称は確かではない。ここでは便宜上、濃姫として記述する。

のうひめ / のひめ

濃姫
濃姫: 呼び名と人物比定, 生涯, その後に関する諸説
濃姫之像(清洲城模擬天守横)
生誕 帰蝶?
天文4年(1535年
美濃国稲葉山城
死没 諸説あり
その後に関する諸説を参照
墓地 濃姫遺髪塚?
国籍 日本
別名 於濃、帰蝶、胡蝶、鷺山殿
[一説に]安土殿
配偶者 [一説に]土岐頼純織田信長
子供 なし[異説あり]生存説も参照
斎藤道三小見の方
親戚 兄弟:
義龍龍重喜平次利堯利治
姉妹:
[説1]女(斎藤利三正室)、女(姉小路頼綱正室)、女(稲葉貞通正室)
[説2]女(金森長近室)、女(休庵室)
その他:
明智光安(伯父)、明智光秀(従兄弟)
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呼び名と人物比定

信長公記』には、平手政秀の働きで政略結婚が成立して、美濃の道三の娘が尾張の戦国大名・織田信秀の嫡男(信長)に嫁いだと書かれているが、その名前は書かれておらず、濃姫という名前も登場しない。

広く知られた『絵本太閤記』や『武将感状記』で、濃姫(のひめ)として登場していることから、この名が有名になったが、これは濃州つまり美濃国の高貴な女、美濃からきた姫、美濃姫を省略して濃姫と呼んだ、と考えるのが正しく、本名ではない。

名前に言及している書籍はわずかであるが、江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』では帰蝶/歸蝶(きちょう)であったとされ、同じく『武功夜話』では胡蝶(こちょう)であったとされる。帰蝶は胡蝶の誤読であるという説もある。

同じく『美濃国諸旧記』で、天文17年(1548年)に秀龍(道三)が稲葉山城を斎藤義龍に譲って出家して、(再び)道三と号して鷺山城に退き、翌年にこの城から古渡城の信長のもとに嫁いだために、鷺山殿(さぎやまどの)と呼ばれていたと書かれているが、これは当時の習慣に則したもので筋が通る。

信長の妻の称としては、お濃の方(おのうのかた)とも呼ばれるが、『絵本太閤記』等の通俗本の呼称である濃姫を元にするよりは、鷺山殿の称の方が由来は明確である。『美濃国諸旧記』では上総介信長の北の方(正室)となったとの記述もあるので、それに基づくと鷺山殿が信長の正室であったと考えることができる。

また後述するが、安土殿と呼ばれていた人物が濃姫と同一人物であるという最近の説もある。総見院で於鍋の方の隣に葬られた養華院が、信長の妻の1人として葬られていることは確かであるが、それを濃姫であると断定するまでにはまだ検討の余地がある。

生涯

濃姫は、斎藤道三の娘で、母は正室の小見の方。『美濃国諸旧記』では、小見の方は、東美濃随一の名家であったという明智氏の出身であり、濃姫は正室唯一の子であったとされる。『系図纂要』や『明智氏一族宮城家相伝系図書』によれば、小見の方は明智光継の娘、光綱の妹とされるので、明智光秀の叔母にあたることになり、濃姫と光秀は従兄妹の関係にあったはずだが、光秀の出自自体に不明な点が多く、諸説があって正確な続柄はよく分からない。

生年を記した書物は『美濃国諸旧記』しかなく、濃姫は天文4年(1535年)の生まれだとされる。道三が42歳の年である。

通説によれば、天文10年(1541年)頃に斎藤道三は守護・土岐頼芸を放逐し、その連枝を殺害して美濃国主となったが、依然として土岐氏に従う家臣も多く、守護家を慕う古い秩序を断ち切れないでいた。そこで、頼芸より下賜された側室・深芳野の子である長男・義龍を頼芸の落胤であると称して美濃守護に据えた。

しかし天文13年(1544年)8月、斎藤氏の台頭を嫌う隣国尾張の織田信秀は”退治”と称して土岐頼芸を援助して兵5千を派遣し、越前国の朝倉孝景の加勢を受けた頼芸の甥・土岐頼純(政頼)が兵7千と共に南と西より攻め入った。斎藤勢はまず南方の織田勢(織田寛近)と交戦したが、過半が討ち取られ、稲葉山城下を焼かれた。同時に西方よりも朝倉勢が接近したため、道三はそれぞれと和睦して事を収めることにした。織田家との和睦の条件は信秀の嫡男・吉法師丸(信長)と娘とを結婚させるという誓約であり、他方で土岐家とは頼芸を北方城に入れ、頼純を川手城へ入れると約束した。

天文15年(1546年)、道三は朝倉孝景とも和睦し、土岐頼芸が守護職を頼純に譲るという条件で、新たに和睦の証(人質)として娘を頼純へ輿入れさせ、頼芸と頼純を美濃に入国させた。主筋の土岐家当主への輿入れであることから相応の身分が必要との推測から、この娘は道三の正室を母とする濃姫であった、とする説がある。この説に従えば、濃姫は数え12歳で、美濃守護土岐頼純の正室となったことになる。

信秀との約束は一旦保留となったが、織田・朝倉の方でも道三を討伐しようという考えを捨てておらず、天文16年(1547年)8月、土岐頼芸と頼純に大桑城に拠って土岐氏を支持する家臣団を糾合して蜂起するように促した。道三はこれを知って驚き、織田・朝倉勢が押し寄せる前に大桑城を落とそうと大軍で攻め寄せたので、頼芸は命からがら朝倉氏の越前国一乗谷に落ち延びた。9月3日、信秀は再び美濃に侵攻して稲葉山城下を焼いたが、22日の夕暮れに退却しようとしている所を斎藤勢に奇襲され、敗北を喫した。

土岐頼純は、『美濃国諸旧記』では同年8月の大桑城落城の際に討ち死に、または同年11月に突然亡くなったとする。前出の同一人物説では、いずれにしろ濃姫はこの夫の死によって実家に戻ったと推測される。

天文16年から翌年にかけて、道三と信秀は大垣城を巡って再三争ったが、決着が付かず、和睦することになって、先年の縁組の約束が再び持ち上がった。『美濃国諸旧記』によれば、信秀は病気がちとなっていたために誓約の履行を督促したとされ、天文18年2月24日(1549年3月23日)に濃姫として知られる道三の娘は織田信長に嫁いだ。媒人は明智光安であったとされる。この時、濃姫は数えで15歳であった。一方で『信長公記』によれば、織田家臣の平手政秀の(個人的な)政治力で和睦と信長の縁組みがまとめられたという。

『絵本太閤記』と『武将感状記』のよく知られた逸話に、結婚の1年後、濃姫が熟睡すると信長は毎夜寝所を出て暁に帰るという不審な行動を1か月も続け、浮気を疑う濃姫が尋ねると、信長は密計を図っていて、謀叛を起こす道三の2人の家老(堀田道空、春日丹後守)からの連絡を待っているのだと答えた。濃姫はついにその旨を父に知らせると、道三は信長の離間策にはまって、家老の裏切りを疑って殺害してしまったというものがある。ただし、この逸話に相当するような、道三が実際に家老を殺害した記録は存在しない。

天文22年(1553年)4月には、信長と道三が正徳寺で会見を行っているが、先年の婚儀以後、濃姫についての記載は『美濃国諸旧記』から途絶える。道三の遺言でも一言の言及もない。他方で、『勢州軍記』『総見記』には、信長の御台所である斎藤道三の娘が、若君(御子)に恵まれなかったので、側室生駒吉乃(類)が生んだ奇妙丸(信忠)を養子とし嫡男としたという記述がある。

斎藤家の菩提寺常在寺に父・道三の肖像を寄進した(時期不明)と寺伝にあるのを最後に、濃姫は歴史の記録から完全に姿を消した。また、近年の研究で、濃姫は慶長17年に78歳で死去した説があるが、定かではない。また、菩提寺も戒名も特定されていない。

その後に関する諸説

濃姫の史料は極めて乏しく、実証が難しいために、その実像には謎が多く、確たることはほとんどわかっていない。2人の間には子ができなかったというのが通説であるが、信長の子供、特に女児の生母は不明の場合が多く、本当に子がいなかったかすら確かではない。上記のように史料価値があると考えられている『信長公記』には入輿について短い記述があるだけでその後は一切登場せず、その他の史書にも記載が少ないため、濃姫のその後については様々な推測がなされている。この節では諸説について多角的に説明するが、いずれも仮説や推論である。

死亡説

織田家の公式行事などを記した史料に濃姫に関することが登場していないのは、病気など何らかの理由で死んだためだと考える説である。

桑田忠親は、天文17年(1548年)、14歳で信長に嫁ぎ、正妻の座にあったが、初期の側室の生駒氏が弘治3年(1557年)に信長の嫡男・織田信忠を産む以前に、20歳くらいで病死したのではないかと推測している。

早世説

寛永15年(1638年)頃に成立したとされる『濃姫: 呼び名と人物比定, 生涯, その後に関する諸説  濃陽諸士伝記』によると、道三を殺した斎藤義龍が病没してその子・龍興の代になった頃、義龍に馬場殿という大変美しい娘がいて、信長から妾(側室)にしたいとの話があった。龍興が言うには、信長は道三の婿で馬場殿は信長の妻の姪となるので、「其妻死後に遣り難し」と述べ、ましてや妾などとしてくれてやるのはもってのほかで、土岐氏の嫡流である当家の名が廃ると言って拒否した。これを聞いた信長は、元来堪え性のない勇敢な人物だったので、憎々しい物言いだと怒って、稲葉山城に何度も攻め寄せて、永禄7年(1564年)8月下旬に落城させた。これに基づくと、濃姫が少なくとも28歳前後の永禄7年には既に亡くなっていて、信長の正室にも別の人物が収まっていたことになる。ただし、実際に稲葉山城が落城したのは永禄10年(1567年)のことであり、整合性には乏しい。

戦死説

濃姫: 呼び名と人物比定, 生涯, その後に関する諸説 
『本能寺焼討之図』(楊斎延一作)
『絵本太閤記』の場面を描いたもので、中央右奥、安田作兵衛の向こう側で長刀を振るう花柄の着物の人物は濃姫を描いたものである。

濃姫が本能寺の変の際に薙刀を振るって信長とともに敵兵と戦って戦死する場面がしばしば描かれてきたが、これは創作物における描写である。本能寺の変の際に濃姫が戦死したという話は、一度として史料で確認されたことはなく、いわゆる小説の世界での話であり、確かなものではなかった。

民間伝承としては、岐阜県岐阜市不動町には本能寺の変の際に信長の家臣の一人が濃姫の遺髪を携えて京から逃れて、この地に辿り着き埋葬したという濃姫遺髪塚(西野不動堂)がある。『美濃国諸旧記』によれば濃姫と信長は1歳違いなので、本能寺の変の時に亡くなった場合、享年48となる。

生存説

この説は、つまり濃姫がその後も生きていた痕跡を探して存在の可能性を示そうというものである。以下年代順に論じる。

同時代人の筆による史料では、『言継卿記』に、信長が足利義昭を擁して上洛した後の永禄12年(1569年)7月条に、斎藤義龍の後家(近江の方)を庇う信長本妻という記述があり、濃姫の生存を示すものである可能性がある。

また、『言継卿記』の同年の記に「姑に会いに行く信長」の記述も見られるが、これは濃姫の生母(小見の方)を指しているはずで、岡田正人は姑の存在は濃姫が生存していたがこそであると主張している。大村由己の『総見院殿追善記』にも、安土城から落ち延びた北の方の記述が見られる。

寛永年間に成立したとされる『氏郷記』には、安土城二の丸の留守居であった御番衆の蒲生賢秀が本能寺の変直後に安土城から日野城へ「信長公御台君達など」を避難させたという記述がある。この「御台」や「北の方」は濃姫のことを指していて、変の時には彼女らは安土城にいたと考えても特に矛盾はない。

元禄年間に書かれた『明智軍記』には、尾張平定後の饗膳の際に、信長内室が美濃討伐の命令を望む家臣達に感謝し、たくさんのアワビなどを振舞ったという記載がある。『明智軍記』は史実と異なる点や誇張・歪曲している点なども多くみられるが、少なくとも江戸時代には一般的に濃姫は信長の正室として存在したと認識されていて、道三亡き後に濃姫が離縁されたり、亡くなったというような話は、伝わっていなかったと推測できる。

享保年間に成立した『近江国輿地志』には、成菩提院の深砂王の書像の奇譚として、信長の「御台所」が宿泊して図らずも安産ができたとする記事が存在するが、この御台所が誰を指しているか、いつのことかなのかは記されていないので、濃姫だとは断定できない。『武功夜話』には、永禄8年(1565年)に信長の新居城である小牧山城に生駒殿のために「御台様御殿」が増築されたとされ、信忠、信雄、五徳、妹の須古女を伴って同御殿に入った生駒殿は翌年にそこで亡くなったので、奇譚についても、生駒殿(御台様)の安産を指している可能性もあるが、『武功夜話』の書かれた年代については疑義が持たれている。

大正期にまとめられた『妙心寺史』によれば、天正11年6月2日に信長公夫人主催で清見寺住持の月航玄津(妙心寺44世)が一周忌を執り行ったという当時の記録があるそうで、羽柴秀吉主催とは別の一周忌法会であるため、興雲院(於鍋の方)とは別人と推測され、他にも候補はいるものの、濃姫をさす可能性はあるとされる。

これらの生存説は、信長死後も濃姫は生存していたことを示しているように思われるという程度で確証に乏しかったが、近年では個人を特定しようという新説が登場した。

安土殿説

濃姫: 呼び名と人物比定, 生涯, その後に関する諸説 
総見院・織田信長公供養塔。養華院は興雲院の隣で格式高く造られている。

信長の次男・織田信雄が天正15年(1587年)頃の家族や家臣団の構成をまとめた『織田信雄分限帳』に、あつち殿(安土殿)という女性が書かれているが、これが濃姫を指すという説がある。

記載によると、安土殿は600貫文の知行を与えられているが、女性としては御内様(信雄正室、北畠具教の娘)、岡崎殿(徳姫、信雄の実妹)に続く3番目に記載され、その次の大方殿様は信長生母・土田御前と推測され、5番目が小林殿(牧長清室、信長妹)となっていて、織田家における地位の高さがうかがえる。安土城の「安土」という土地を冠されていることから、その地と所縁の深いのはすなわち信長の妻で、それも正室にあたるのではないかと推測された。「安土殿」が濃姫だとすれば、この時点で生存していたことになる。

平成4年(1992年)、岡田正人は、調査によって鷺山殿の法名が安土摠見寺蔵『泰巌相公縁会名簿』に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と記されていたと発表した。また京都の大徳寺総見院には「養華」と刻まれた五輪供養塔(卒塔婆)があると報じ、NHKの大河ドラマ『信長』内で、従来説を覆し、濃姫(鷺山殿)が慶長17年7月9日(1612年8月5日)まで78歳の天寿を全うしたと放送した。また岡田正人は養華院は濃姫であると主張し、於濃(濃姫)の墓所との地元伝承のある瑞龍寺墓所については玉泉院(前田利長室)の生母は別人であろうと推定した。これらが正しければ、濃姫は(織田氏の菩提寺である)大徳寺総見院に埋葬されている可能性がある。

上記の岡田正人の説に対して、永田恭教は養華院に関する大徳寺の記録は全て寵妾となっていることから、養華院は濃姫ではなく側室の一人であったと反論をしている。

関連作品

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脚注

注釈

出典

参考文献

関連項目

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