本田 圭佑(ほんだ けいすけ、1986年6月13日 - )は、日本の実業家、サッカー指導者、解説者、元サッカー選手。現役時代のポジションはMF、FW。元日本代表。
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
2018 FIFAワールドカップでの本田圭佑 | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | ケイスケホンダ | |||||
ラテン文字 | HONDA Keisuke | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1986年6月13日(37歳) | |||||
出身地 | 大阪府摂津市 | |||||
身長 | 182 cm | |||||
体重 | 74 kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF / FW | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
1994-1998 | 摂津FC | |||||
1999-2001 | ガンバ大阪ジュニアユース | |||||
2002-2004 | 星稜高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2005-2007 | 名古屋グランパスエイト | 90 | (11) | |||
2008-2009 | VVVフェンロー | 68 | (24) | |||
2010-2013 | CSKAモスクワ | 94 | (20) | |||
2014-2017 | ミラン | 81 | (9) | |||
2017-2018 | パチューカ | 29 | (10) | |||
2018-2019 | メルボルン・ビクトリー | 18 | (7) | |||
2019 | フィテッセ | 4 | (0) | |||
2020 | ボタフォゴ | 18 | (2) | |||
2021 | ネフチ・バクー | 7 | (2) | |||
2021 | スードゥヴァ・マリヤンポレ | 6 | (1) | |||
通算 | 415 | (86) | ||||
代表歴2 | ||||||
2002 | 日本 U-17 | 1 | (0) | |||
2005 | 日本 U-20 | 1 | (0) | |||
2006-2008 | 日本 U-21/22/23 | 18 | (5) | |||
2008-2018 | 日本 | 98 | (37) | |||
監督歴 | ||||||
2018-2023 | カンボジア | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2021年12月1日現在。 2. 2018年7月3日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アジア(日本)、ヨーロッパ(オランダ・ロシア・イタリア・アゼルバイジャン・リトアニア)、北中米(メキシコ)、オセアニア(オーストラリア)、南米(ブラジル)と6地域中5地域のプロリーグでプレーし得点を決めた。
日本代表時代には日本人初となるW杯3大会連続ゴールを決め(日本人のW杯最年長得点者)、アジア人のW杯最多得点者となり、アジア人初となるW杯3大会連続アシストも達成。ルディ・フェラー、デイビッド・ベッカムらに続くW杯3大会連続となる得点とアシストの両方を記録した史上6人目の選手となった。FIFA選出のW杯の「マン・オブ・ザ・マッチ」数において日本人最多の「4回」受賞し、ミロスラフ・クローゼ、エデン・アザール、ハメス・ロドリゲスらと並び受賞総数5位である。
2020年にイギリスメディア『90min』選定の「21世紀の日本代表ベストイレブン」に選出、ドイツメディア『SPOX』選定の「アジア歴代ベストイレブン」に選出、『アジアサッカー連盟(AFC)』『Opta』選定の「W杯アジアベストイレブン」に選出された。
現役選手ながら選手以外の活動も精力的に行い、2012年から自身がプロデュースするサッカースクール・SOLTILO FAMILIAを日本全国で開校。2015年からは複数のプロサッカークラブの実質的なオーナーを務める。2018年よりカンボジア代表のGM・監督に就任し、2023年に退任。
大阪府摂津市出身。両親は本田が小学校2年生の春に離婚、自身は父親に引き取られたが、仕事で忙しかったこともあり、祖父母に育てられていた。幼少時は鳥飼さつき園に通園。摂津市立鳥飼北小学校2年時から地元の摂津FCに入団しサッカーを始めた。摂津市立第四中学校に入学。あだ名はゴリ。その後、ガンバ大阪ジュニアユースに所属し家長昭博、安田理大、東口順昭らとともにプレーしたが、当時はスタミナやスピードに難があり、ユースチームへの昇格が見送られた為、石川県の星稜高校へ進学した。1年時に高円宮杯全日本ユース選手権で準優勝し、3年時にはキャプテンとして第83回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、石川県勢として初のベスト4に貢献した。高校では、豊田陽平や橋本晃司とともにプレーした。2004年には特別指定選手として名古屋グランパスエイトの練習に参加し、7月24日に行われたナビスコカップのジュビロ磐田戦で公式戦初出場を果たした。背番号は「39」。同時期に横浜F・マリノスの練習にも参加したが獲得は見送られた。
高校卒業に際して複数のJリーグクラブからオファーを受け、前年に特別指定選手として在籍していた名古屋グランパスエイトとプロ契約を結んだ。背番号は「24」。本人の希望により加入時の契約に「オファーがあれば海外クラブへの移籍を認める」という条項が盛り込まれていた。2005年3月5日、ジェフユナイテッド千葉戦でクラブ史上4人目となる高卒ルーキーの開幕スタメンでプロデビューし、アシストを決めた。4月28日、第8節東京ヴェルディ戦でプロ初ゴールを決めた。
セフ・フェルフォーセンが監督に就任した2年目からレギュラーに定着。フェルフォーセンは本田を主に左サイドで起用するが、これはヨンセンの高さを生かすために本田のクロスが武器になることを期待したことに加え、まだ若い本田の戦術理解力を上げるために様々な役割を与えていたことが理由として挙げられる。
2008年1月16日、エールディヴィジ(オランダ1部リーグ)のVVVフェンロへ移籍。2年半契約+1年のオプション付きで背番号は「29」。VVVフェンロのハイ・ベルデン会長が名古屋グランパスを率いていた同郷のセフ・フェルフォーセンに日本人選手獲得について相談し、フェルフォーセンが本田を推薦したことが移籍のきっかけとなった。1月20日の入団会見直後に行われたPSV戦に後半開始から出場した。3月15日、第29節フェイエノールト戦で移籍後初得点となる直接FKを決めた。レギュラーに定着したが、チームはエールステ・ディヴィジ(オランダ2部リーグ)への降格が決定した。
2008-09シーズンは8月に浦和レッズから正式オファーが届いたが、本田はオファーを断り、残留を決めた。背番号を「10」に変更し、攻撃の軸として首位を独走するチームの原動力となり、2009年3月20日のフォルトゥナ戦からはキャプテンを任された。4月24日、ハーレムに勝利し、チームをリーグ優勝と1部復帰に導いた。リーグ戦36試合に出場し16ゴール13アシストを挙げ、2部各チームの監督と主将投票による年間最優秀選手賞(MVP)を受賞した。
2009-10シーズンは8月にジーコが率いるロシア・プレミアリーグのCSKAモスクワから正式オファーが届いたが、本田はオファーを断り、残留を決めた。前半戦18試合に先発出場し、6ゴール7アシストを挙げた。第3節ユトレヒト戦では約30 mの距離から豪快なミドルシュートを決めた。このゴールは2017年に『FOX Sports』で過去10年のエールディビジで生まれた「スーパーミドルTOP10」で5位に選出、2019年にはエールディビジで生まれた「日本人最高のゴールTOP10」で1位に選出された。2009年12月にCSKAモスクワ、PSVから正式オファーが届いた。
2010年1月1日、ロシア・プレミアリーグのCSKAモスクワへ移籍。4年契約で背番号は「7」。移籍金は900万ユーロ(約12億円)と報道され、ロシア・プレミアリーグでプレーする初めての日本人選手となった。
2010年2月24日、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)決勝トーナメント1回戦1stレグのセビージャ戦に先発出場し、CL初出場を果たした。この大会のみ背番号は「18」をつけた。3月16日、2ndレグのセビージャ戦で前半39分にはトマーシュ・ネツィドの先制点をアシストし、後半10分には約30mの距離から決勝点となる直接FKを決め、CL初得点。2戦合計3-2でCSKAが勝利し、日本人初、クラブ史上初、ロシアリーグ所属チーム史上初となるCLベスト8への原動力となった。この試合で「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出、さらに1stレグ2ndレグともに欧州の複数のスポーツ紙にてCL週間ベストイレブンに選出された。準々決勝ではジョゼ・モウリーニョが率いるインテルと対戦し、1stレグ2ndレグともに先発出場したが、チームは敗れた。この大会でインテルは優勝を果たした。
2010-11シーズンは2010年3月12日に行われた開幕戦のアムカル戦に先発出場し、後半アディショナルタイムに移籍後初得点となる決勝点を決めた。不慣れなボランチでの出場が多いながらも、リーグ戦で4得点を挙げ、ロシア紙『スポーツ・エクスプレス』の採点では平均6.02で全選手中10位と高く評価され、来シーズンのCL本戦出場権獲得に貢献した。UEFAヨーロッパリーグ(EL)では、グループリーグのパレルモ戦で1ゴール2アシストを挙げるなどの活躍を見せ、グループリーグ突破に貢献した。EL決勝トーナメント2回戦でフッキ、ラダメル・ファルカオ、ハメス・ロドリゲスらを擁し、アンドレ・ビラス・ボアスが率いるポルトと対戦。1stレグ2ndレグともに先発出場したが、チームは敗れ、ベスト16に終わった。この大会でポルトは優勝を果たした。2011年5月22日、ロシア・カップ決勝のアラニア戦で決勝点をアシストし、CSKAモスクワの2シーズンぶりの優勝に貢献した。
2011-12シーズンはボランチではなく、得意とする右サイドハーフで起用されたことで得点に絡む機会が増え、18試合で前シーズンを上回る7得点を挙げるなど好調だったが、2011年8月28日のスパルタク・モスクワ戦で右膝半月板を損傷し、9月1日に手術を受け、全治には最長3か月と発表された。11月18日のルビン・カザン戦で先発フル出場し、2か月半ぶりに復帰を果たすも、試合後に右膝の故障が再発し、またも長期離脱となり、CLグループリーグを全試合欠場した。2012年1月、イタリア・セリエAのラツィオへの移籍が取り沙汰され、冬の移籍市場でイタリア勢で最高金額の移籍金のオファーを提示されたが、CSKAがオファーを断り、移籍は破談となった。2012年2月21日、CL決勝トーナメント1回戦1stレグのレアル・マドリード戦で途中出場し、3か月ぶりに公式戦復帰を果たした。しかし、2ndレグは左太ももの負傷で欠場し、チームも敗退した。4月21日のディナモ・モスクワ戦で1か月半ぶりに復帰を果たした。5月13日、最終節ルビン・カザン戦で9カ月ぶりの得点を決めるもチームは敗れ、来シーズンのCL出場権を逃した。
2012-13シーズンはトップ下で起用され、19試合で7得点を挙げる活躍でチームの原動力となり、チームは首位でウィンターブレイクを迎えた。ウィンターブレイク中の2013年2月に左足首の負傷でチームを離脱。以後、長期に渡り治療を余儀なくされ、3月のW杯アジア最終予選ヨルダン戦も欠場し、4月21日のスパルタク・モスクワ戦で2か月ぶりに復帰を果たした。2013年5月18日、CSKAモスクワは6シーズンぶりのリーグ優勝を達成し、自身にとって初の欧州1部リーグでの優勝となった。6月1日、ロシア・カップ決勝のアンジ戦に先発出場し、2シーズンぶりの優勝に貢献、2冠を達成した。ロシア紙『スポーツ・エクスプレス』選定の2012-13シーズンのベストイレブンにトップ下で選出された。
2013-14シーズン初戦となったロシア・スーパーカップのゼニト戦で2得点を決める活躍を見せ、CSKAモスクワの4シーズンぶりの優勝に貢献した。夏の移籍市場でセリエAのACミランへの移籍が取り沙汰され、1か月以上にわたってクラブ間交渉が行われたが、CSKAがオファーを断り、移籍は破談となった。CLグループリーグではバイエルン・ミュンヘン戦とプルゼニ戦で1ゴールを決めるなど2G2Aの活躍を見せたが、チームはグループリーグで敗退した。2013年12月11日、CSKAモスクワ退団が発表された。
2013年12月11日、セリエAのACミラン移籍が発表された。3年半契約で背番号は自ら希望した「10」に決まった。2014年1月12日、第19節サッスオーロ戦で後半から途中出場し、セリエAデビューを果たした。しかし、翌日マッシミリアーノ・アッレグリ監督が成績不振により解任された。アッレグリの下で得意とするシャドーでの起用予定だったが、新監督のクラレンス・セードルフはカカをトップ下に置き、本田は右サイドで起用された。1月15日、初の先発出場となったコッパ・イタリア5回戦スペツィア戦で移籍後初得点を決めた。4月7日、第32節ジェノア戦でリーグ戦初得点を決めた。
2014-15シーズンはフィリッポ・インザーギが監督に就任し、3トップの右ウイングで起用された。開幕戦のラツィオ戦で先発出場し、先制点を決めた。第2節パルマ戦ではジャコモ・ボナヴェントゥーラの先制点をアシスト、イニャツィオ・アバーテのクロスを頭で決め、1ゴール1アシストを記録した。第7節ヴェローナ戦で移籍後初の1試合2得点を決めた。2014年11月23日、インテルとのミラノダービーにインテル所属の長友佑都とともに出場し、ミラノダービーで初の日本人対決が実現した。
2015-16シーズンはシニシャ・ミハイロヴィチが監督に就任。2試合連続で出場機会がなく、チームが2連敗を喫した10月4日のナポリ戦後、チーム批判とも受け取られかねない発言をした。次節からアレッシオ・チェルチが右ウイングで起用されたため、出場機会が激減した。12月20日、第17節フロジノーネ戦でシステム変更に伴い右サイドハーフに抜擢、リーグ戦では12試合ぶりの先発出場となり、アバーテの同点ゴールをアシスト、フル出場を果たし勝利に貢献。監督の信頼を得て、以降は右サイドハーフのレギュラーに定着。2016年1月30日、インテルとのミラノダービーに先発出場し、右サイドからのクロスでアレックスの決勝点をアシストし勝利に貢献、伊3紙から最高点が与えられた。2月14日、第25節ジェノア戦で30m超の距離から今季リーグ戦初得点となるミドルシュートを決めた。このゴールはミランサポーターが選ぶシーズンベストゴールに選出された。コッパ・イタリアでは7試合で1G4Aを挙げ決勝進出に貢献、決勝戦のユヴェントス戦で先発フル出場を果たしたが、チームは延長戦で敗れ、優勝を逃した。ユヴェントスはリーグでも優勝を果たしていたため、準優勝のミランが来シーズンのスーペルコッパ・イタリアーナの出場権を獲得した。
2016-17シーズンはヴィンチェンツォ・モンテッラが監督に就任し、スソ、エムベイェ・ニアン、ジェラール・デウロフェウといった若くてスピードがあるウイングが起用されたため、出場機会が少なかった。2016年12月23日、スーペルコッパ・イタリアーナが行われ、ベンチ入りしたが出場せず、チームはユヴェントスにPK戦で勝利し、ミラン移籍後初タイトルを獲得した。2017年1月31日、冬の移籍市場最終日にイングランド・プレミアリーグのハル・シティから正式オファーが届いたが、本田はオファーを断り、残留を決めた。2017年5月21日、ホーム最終戦のボローニャ戦で途中出場し、今季初得点となる直接FKを決めた。ミランの来季のEL出場を決定付ける得点でもあり、このFKはミランサポーターが選ぶ5月のベストゴールに選出された。試合後、自身の公式Twitterを開設すると同時に今季限りでのミラン退団を表明した。5月28日、ミランでのラストマッチとなった最終節のカリアリ戦では、ミランで初めてゲームキャプテンを任された。
ミラン情報サイト『ピアネタ・ミラン』は本田について「良いテクニックを持っており、戦術的には貴重な選手であり、頭も良い。それに非常にプロフェッショナルな選手だ」と評した一方で「マーケティング目当てで獲得したというレッテルが貼られ、ティフォージ(サポーター)から愛されなかった。もし本田が背番号10番以外を選んでいたとしたら、ミランのサポーターの態度は違っていたのかもしれない」と指摘した。「模範的なプロ選手であり続け、コンディションを保つために労を惜しまず、彼を指導した監督は全員、彼について好印象を持っていた。ミランでは大成功を収めることはできなかったが、足跡はしっかり残した」と締めくくった。
2017年7月14日、リーガMX(メキシコ1部リーグ)のパチューカへの移籍が決定した。1年契約で背番号は「02」。ユニフォームネームは「KSK」となっている。この「KSK」とは自身の展開するブランドの名前であり、圭佑という名前をもじったものである。
2017-18シーズンの前期(アペルトゥーラ)は右ふくらはぎ肉離れで出遅れたが、8月22日の前期第6節ベラクルス戦で後半から途中出場し、移籍後初得点を決めた。コパMXでは決勝トーナメント1回戦のサカテペク戦で移籍後初の1試合2得点を決め、準々決勝のティフアナ戦ではハーフウェーライン手前から4人抜きのゴールを決め称賛された。
2017年12月に開催されたFIFAクラブワールドカップでは北中米カリブ海王者として挑み、準々決勝のウィダード・カサブランカ(モロッコ・アフリカ王者)戦で先発フル出場し、勝利に貢献。準決勝のグレミオ(ブラジル・南米王者)戦でも先発フル出場し、奮闘するも、チームは延長戦の末に敗れた。右膝痛のため3位決定戦のアル・ジャジーラ(UAE・開催国王者)戦は欠場したが、チームは勝ち、3位となった。
後期(クラウスーラ)では第5節モレリア戦で直接FKを決め、第14節プエブラ戦ではリーグ戦初の1試合2得点を決めた。1トップ、トップ下、右インサイドハーフ、右ウイングと複数のポジションでプレーし、リーグ戦29試合に出場し10ゴール7アシストを挙げ、チームの攻撃を牽引。この活躍を北米メディア『ESPN』からは「今季メキシコリーグに加入選手の中で最もインパクトを残した」と称賛された。
2018年8月6日、Aリーグ(オーストラリア1部リーグ)のメルボルン・ビクトリーへの移籍が発表された。1年契約で背番号は「4」。年俸制限のないマーキープレーヤーとしての契約となる。
2018-19シーズンは右インサイドハーフで起用され、10月20日に行われた開幕戦のメルボルン・シティ戦にキャプテンマークを巻き先発出場し、移籍後初得点となる先制点を決めた。開幕から7試合で4G3Aを挙げ、10月と11月のAリーグ月間最優秀選手に選出された。12月に右太もも裏を負傷し、チームを離脱。2019年2月10日、第18節パース・グローリー戦で2か月ぶりに復帰を果たした。AFCアジアチャンピオンズリーグ(ACL)のグループステージ第1節大邱FC戦で大会初出場を果たした。2019年3月12日、クラブチームの選手として、11年3か月ぶりの日本凱旋試合になった第2節サンフレッチェ広島戦でACL初得点を決め、第2節のベストイレブンに選出された。チームはレギュラーシーズン3位になり、ファイナルシリーズ進出を決めた。ファイナルシリーズでは2試合にフル出場し、2アシストを挙げたが、準決勝でシドニーFCに敗れた。
2019年6月にメルボルンビクトリーを退団後、無所属の状態が続いたが、同年10月31日からエールディヴィジのSBVフィテッセの練習に参加。CSKAモスクワ時代の恩師であるレオニード・スルツキーがチームを率いていた。11月6日、フィテッセへの移籍が発表された。シーズン終了までの1年契約で背番号は「33」、10年ぶりのオランダ復帰となった。練習参加だけの予定だったが、スルツキー監督から獲得を熱望され、心変わりしたことを移籍理由に挙げた。
2019年11月24日、第14節スパルタ戦に先発出場し、半年ぶりの実戦となった。第15節ヘーレンフェーン戦も先発出場を果たしたがチームは敗れ、試合後に5連敗の責任を取り、スルツキー監督は辞任した。12月23日、フィテッセ退団が発表された。低迷するチーム状況を変えられず、恩師であるスルツキ監督の退任を招いたことを退団理由に挙げた。
2020年1月31日、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA(ブラジル1部リーグ)のボタフォゴへの移籍を発表。1年契約で背番号は「4」。
2020年3月15日、リオデジャネイロ州選手権の第3節バングー戦に先発出場し、先制点となるPKを決め、移籍後初得点を挙げた。この得点により、クラブキャリア通算100得点を達成した。また、アジア・ヨーロッパ・北アメリカ・オーストラリア・南アメリカの5大陸のプロリーグで得点を記録した史上初の選手となった。しかし、試合後に新型コロナウイルスの感染拡大を受け、全ての公式戦が中断。中断によりクラブの収入は激減し、以前から巨額の負債を抱えていたクラブの財務状況は一層悪化、選手やクラブスタッフへの給与遅配が続いた。5月に本田は遅配している3月分の給与を受け取らないことを申し出たが、クラブ側は全選手に給与を支払う方針を示した。6月29日、公式戦再開となるリオデジャネイロ州選手権の第4節カボフリエンセ戦からゲームキャプテンを任された。10月11日、ブラジル全国選手権の第15節スポルチ戦で全国選手権初得点を挙げた。日本人の全国選手権でのゴールは三浦知良(1990年)、前園真聖(1998年)に続き3人目となった。チームは降格圏に沈み、1年で4人(最終的には1年で5人)の監督が解任。度重なる監督交代、1試合も指揮を執っていない監督を就任13日で解任したフロント陣に不満を持ち、ボタフォゴ退団を示唆した。12月19日のコリチーバ戦で左太ももを負傷し、全治6 - 8週間の診断を受け、チームを離脱。
2020年12月30日、自身のTwitterでボタフォゴ退団を表明し、2021年1月29日に退団が発表された。チームに残留しても負傷でシーズンの残り試合の出場は難しい中での退団だったが、チームが降格圏に沈む中での退団にサポーターやメディアからは厳しい声が上がった。しかし、チームメイトのサロモン・カルーはボタフォゴの問題を指摘し、本田の退団に理解を示した。新型コロナウイルスの感染が深刻化している中でチームメイトやチームスタッフと自身の送別会を開き、批判を受けた。
2021年1月、オファーを受けていたプリメイラ・リーガ(ポルトガル1部リーグ)のポルティモネンセで前年12月に負傷した左太もものリハビリを行っていた。2021年2月2日、ポルトガルリーグの規定では夏の移籍市場が閉まった時点(20-21シーズンは2020年10月25日)で無所属であれば、移籍期間外でも選手登録が可能なフリーエージェントとして認められることが判明。2020年10月25日時点でボタフォゴ所属の本田はフリーエージェントとしては認められず、また当初発表されていたポルトガルリーグの冬の移籍期間は2月4日までだったが、2月2日までに変更されていたことも判明。
2021年2月6日、ポルティモネンセへの入団会見を行った。半年契約で背番号は「4」。しかし後日、登録期間内に選手登録が間に合っていなかったことが判明し、今シーズンの公式戦出場が不可能になったため、移籍は実現しなかった。
2021年3月15日、アゼルバイジャン・プレミアリーグのネフチ・バクーへの移籍が発表された。今シーズン終了までの契約で背番号は「4」。アゼルバイジャン・プレミアリーグでプレーする初めての日本人選手となった。4月4日、第21節スムガイト戦に後半開始から出場し、3か月半ぶりの公式戦出場となった。第25節ケシュラ戦で移籍後初得点を挙げ、第26節サバイル戦では2試合連続となる得点を挙げた。5月19日、リーグ7連覇中で首位のカラバフと優勝を懸けた最終節に先発出場し、チームはカラバフに勝ち、逆転で8シーズンぶりのリーグ優勝を達成した。
2021年9月14日、Aリーガ(リトアニア1部リーグ)のスードゥヴァへの移籍が発表された。今シーズン終了までの契約で背番号は「3」。9月26日、第30節バンガ戦に先発出場し、4か月ぶりの実戦となった試合で移籍後初得点を挙げた。シーズン終了後、契約満了により退団した。
星稜高校3年時に石川県選抜として、本来のボランチではなく左サイドバックとしてプレーし、ステップなしの強いキックで、いとも簡単にサイドチェンジしていた姿がU-19日本代表監督を務めていた大熊清の目に留まり、2004年に初めて日本代表に選出された。2005年6月に開催されたFIFAワールドユース選手権・オランダ大会にU-20日本代表として招集され、負傷明けの梶山陽平に代わって、グループリーグ初戦のオランダ戦にボランチで先発出場した。しかし試合は前半にオランダが圧倒、後半は日本もペースをつかむ時間帯を得たが本田は途中交代となり、チームも敗れた。この後、チームはベスト16に進出したものの、梶山の復調もあって出場機会はなかった。
2007年に開催された北京オリンピックアジア予選では左サイドハーフ、左ウイングバック、左サイドバックとして最終予選5試合にフル出場し、五輪出場権獲得に貢献した。2008年8月に開催された北京オリンピックでは3試合に先発出場し、谷口博之らとともに主力として攻撃を牽引したが、グループリーグ3戦全敗で敗退した。
2006年11月、A代表に初選出されたが出場はなかった。2008年6月22日、2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のバーレーン戦でA代表デビュー。2009年5月27日、キリンカップのチリ戦で山田直輝からパスを受け、A代表初得点を挙げた。右サイドには中村俊輔が君臨していたため、本田は控えの立場だったが、2010年に入るとレギュラーに定着。
2010年6月に開催されたFIFAワールドカップ・南アフリカ大会では4試合にフル出場。大会直前にそれまで経験のないセンターフォワード(1トップ)に抜擢された。グループリーグ初戦のカメルーン戦の前半39分に決勝点を挙げ、自国開催以外のW杯初勝利に貢献、FIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。第3戦のデンマーク戦では前半17分に30m超の距離から先制点となる直接FKを決め、後半42分には勝利を決定付ける岡崎慎司のゴールもアシストし、自国開催以外のW杯で初の決勝トーナメント進出に貢献、この試合でも「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦では強烈なミドルシュートを放つなど強い印象を残し、PK戦では4人目のキッカーとして成功したが、チームは敗れた(記録上は引き分け)。しかし敗戦チームからは異例の今大会3度目となる「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。
2011年1月に開催されたアジアカップ・カタール大会では5試合に先発出場。グループリーグ第2戦のシリア戦では、PKで日本代表の国際Aマッチ通算1000点目となる決勝点を挙げた。準決勝の韓国戦でも全2得点に繋がるプレーを見せ、この2試合で「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。準々決勝のカタール戦での2得点につながる縦パスを含め、出場した試合で日本代表が挙げた全9得点中6得点に絡む活躍で日本代表の2大会ぶりのアジアカップ優勝に貢献し、最優秀選手(MVP)に選出された。
2011年2月7日、全国のサッカー担当記者の投票による2010年度のフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)に有効投票202票のうち、75票を集めて初選出された。50年の歴史がある賞だが、海外クラブ所属の選手が受賞するのは本田が初めてであった。3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、先制点のきっかけとなったFKを獲得し、岡崎慎司の決勝点をアシストする活躍を見せた。2011年8月に右膝半月板を損傷し、長期離脱を余儀なくされ、2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選を全試合欠場した。2012年5月のアゼルバイジャン戦で9か月ぶりに代表復帰を果たした。
2012年6月3日、2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選のオマーン戦で先制点を決めた。6月8日、ヨルダン戦ではハットトリックを達成。本田のハットトリックは高校時代以来でプロ入り以降は初めてであり、W杯アジア最終予選の日本人選手のハットトリックは三浦知良(1997年ウズベキスタン戦)以来となる、史上2人目の快挙となった。2013年6月4日、オーストラリア戦の後半アディショナルタイムに自らが獲得した同点となるPKを決め、日本代表は2014 FIFAワールドカップ出場を決めた。最終予選で5得点を決めた本田は、1大会のW杯アジア最終予選における通算得点で三浦知良の4得点を抜き、歴代最多得点を更新した。
2013年6月に開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013では3試合に先発出場。グループリーグ第2戦のイタリア戦でPKで先制点を決めるが、チームは逆転負け。グループリーグ3戦全敗で敗退した。本田はFIFA選定のグループリーグベストイレブンにアンドレス・イニエスタ、マリオ・バロテッリらとともに選出され、グループリーグ敗退国からは唯一の選出となった。
2014年6月に開催されたFIFAワールドカップ・ブラジル大会では3試合にフル出場。グループリーグ初戦のコートジボワール戦では先制点を決め、日本人のW杯最多得点を更新したが、チームは逆転負け。第2戦のギリシャ戦ではチームは引き分けに終わったものの、FIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。第3戦のコロンビア戦では岡崎慎司のゴールをアシストしたが、チームは敗れ、グループリーグで敗退した。
2015年1月に開催されたアジアカップ・オーストラリア大会では4試合に先発出場。グループリーグで3得点(2得点がPK)を決め、AFC選定のグループリーグベストイレブンに選出された。準々決勝UAE戦では柴崎岳の同点弾をアシストするも、PK戦で本田と香川真司がPKを外し、チームは敗れた。
2015年11月17日、2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選のカンボジア戦で得点を決め、日本サッカー史上初のワールドカップ地区予選5試合連続ゴールを記録。シリア戦でも得点を決め、6試合連続ゴールを記録。2016年9月1日、2018 FIFAワールドカップ・アジア最終予選のUAE戦で先制点を決め、7試合連続ゴールを記録。タイ戦では得点を決められず、連続ゴールは7試合でストップした。オーストラリア戦では4年ぶりとなる1トップで出場し原口元気の先制点をアシスト、イラク戦ではCKから大迫勇也の先制点をアシストした。
2017年9月6日のサウジアラビア戦に先発したが、前半終了後交代となった。試合後に代表監督のヴァイッド・ハリルホジッチは「本田のゲーム勘が欠けていたことが分かっていたので、45分限定で使った。リズムの面でトップレベルにない、今後も努力して取り戻してもらいたい」と評した。自身も「全然ダメ」と認める低調なプレーに、サッカーファンやメディアの間から“本田不要論”が噴出した。本田はこれを受けて、Twitterにて「サッカーファンの皆さん、メディアの皆さん、『もう代表に必要ない』とか他にも厳しい声をありがとうございます」「良い感じで舞台は整ってると思ってます」と批判に対して感謝を述べた。2017年9月28日、負傷や国内組で編成された試合を除いて、代表とクラブでの不振を理由に2009年3月以来となる8年半ぶりに代表メンバーから外れた。2018年3月、クラブでの活躍が評価されて半年ぶりに代表復帰を果たした。
2018年6月に開催されたFIFAワールドカップ・ロシア大会ではスーパーサブとして3試合に途中出場。グループリーグ初戦のコロンビア戦でCKから大迫勇也の決勝点をアシストし勝利に貢献、アジア人初となるW杯3大会連続のアシストを達成した。第2戦のセネガル戦では後半33分に同点ゴールを決め、チームは引き分け。日本人のW杯最年長ゴールであり、日本人初となるW杯3大会連続ゴールを達成し、アジア人のW杯最多得点を更新した。W杯3大会連続となる得点とアシストの両方を記録した史上6人目の選手となった。日本代表の決勝トーナメント進出に貢献した本田の活躍は“本田不要論”を唱えていた者たちにも予想外であり、ネット上で「本田さん、ごめんね」といった謝罪の言葉があふれた。また、イギリス公共放送『BBC』にグループステージのベストイレブンに選出された。決勝トーナメント1回戦のベルギー戦では、同点で迎えた後半アディショナルタイムに南アフリカW杯のデンマーク戦を彷彿とさせる直接FKを遠距離から放ったが、GKのティボ・クルトゥワの好守に阻まれた。その直後に蹴ったCKをクルトゥワにキャッチされた流れから、カウンターで失点し、チームは逆転負け。試合後に本田は「僕自身はこれが最後のW杯になる。次の世代にバトンを渡して、W杯で優勝という目標を掲げて引っ張っていく若い連中に期待したい」とW杯優勝の夢を次の世代に託して、自らは4年後のW杯は目指さないことを明言した。
ベルギー戦の後半アディショナルタイムに勝ち越し点を狙いに行った本田や日本代表には賛否両論が噴出し、試合直後にファビオ・カペッロは「ボールをキープして延長戦に持ち込むべきだった」とCKを蹴った本田を批判し、書籍『ロストフの14秒』では「ゴール前に2人のCBを上げずに、1人は自陣に残してカウンターに備えるべきだった」と日本代表の判断を批判した。しかし、同書でアルベルト・ザッケローニは「CKを蹴った選択は正しかったんだ。私が監督だったら日本代表と同じように『ゴールを狙え』と指示したでしょう」「CKで得点できていれば、世界中から日本代表は称賛された。逆にボールを回す選択をして負けたら『勇気をもって戦えば良かったのに』と言われたかもしれません」「攻める姿勢を貫いたことは日本のサッカー文化だ」と語った。また、NHK BS1で放映された『激白!西野朗×岡田武史』で岡田武史は「ショートコーナーで時間を使って延長戦に持ち込む、俺は絶対違うと思ったね。ここは勝負に行くべきでしょ」と語り、西野朗も「ビッグチャンスだからね」と同調した。ベルギー戦から1年後には「負けた一番の原因は1失点目。そして2失点目」「3失点目はクルトゥワのスローイングを遅らせなかったことが痛かった」などの日本サッカー協会テクニカルスタッフによる分析内容の一部が明かされた。
2018年8月、2020年東京オリンピックにオーバーエイジとして出場を目指すことを宣言した。しかし、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行を受けて、オリンピックは1年延期となった。2021年6月、東京オリンピックに臨むU-24日本代表が発表され、オーバーエイジとしてA代表で主力の吉田麻也、酒井宏樹、遠藤航の3人が選出され、本田の五輪出場は叶わなかった。
2018年8月12日、カンボジア代表のGMに就任することが発表された。契約期間は2年。また、現役選手ながら実質的な監督として指揮をとることも発表され、本田は監督の資格を有していないため、登録上はフェリックス・アウグスティン・ゴンザレス・ダルマスが監督に就任した。2018年11月に開催された東南アジアサッカー選手権のグループステージのラオス戦で監督初勝利を挙げた。カンボジア代表の東南アジアサッカー選手権での勝利は通算3勝目であり、2002年大会以来16年ぶりの勝利となった。
2019年6月、2022 FIFAワールドカップ・アジア1次予選でパキスタンに勝ち、2次予選進出を決めた。2019年9月5日、2022 FIFAワールドカップ・アジア2次予選で香港に引き分け、カンボジアサッカー史上初の2次予選で勝ち点を挙げた。五輪代表も実質的な監督を兼任し、2019年11月に開催された東南アジア競技大会で史上初のグループリーグ突破を果たし、過去最高の4位の成績を残した。
2021年3月24日、2023年5月にカンボジアで開催される東南アジア競技大会までの契約延長が発表された。また、フェリックス・アウグスティン・ゴンザレス・ダルマスの監督退任が発表され、帝京高校などを率いてきた広瀬龍の監督就任が発表された。
2022年12月に開催された東南アジアサッカー選手権のグループステージではフィリピンとブルネイに勝利、カンボジア代表初の1大会2勝を挙げたが、最終戦のタイに敗れ、グループステージ敗退となった。しかし、グループステージ3位のカンボジア代表史上最高の成績を収めた。今大会が最後のA代表の試合になり、五輪世代で臨む2023年5月の東南アジア競技大会をもってカンボジア代表のGMから退任することを発表。契約満了に伴う退任となる。
名古屋時代はシュートへの意識はそれほど高くなく、かつては「自分の中の美学はパスだった」とも語っていたが、海外移籍後はゴール数を残すことがキャリアアップへの近道と考え、貪欲にゴールを目指すスタイルを確立した。
フリーキックが得意と評されており、距離的にはやや離れた位置が得意である。
以前も日本代表において守備時の運動量の少なさを指摘されることもあった。またすべての中盤のポジションとウイング、時にはセンターフォワードや左サイドバックでもプレーし、ユーティリティ性に優れている。
2010年のFIFAワールドカップ・南アフリカ大会のパラグアイ戦では、両チームの中で最速の29.43 km/hのランを記録した。J SPORTSウェブ版のコラムニスト原田公樹は「この数字は一瞬のもので、どれくらいの時間、持続していたかわからないが、少なくとも本田は鈍足ではない」と記事を綴った。
2010年に南アフリカW杯、CLでの活躍が評価され、日本人選手として小野伸二(2002年)以来2人目となるUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされた。
2020年にイギリスメディア『90min』選定の「21世紀の日本代表ベストイレブン」に選出、ドイツメディア『SPOX』選定の「アジア歴代ベストイレブン」に選出、『アジアサッカー連盟(AFC)』『Opta』選定の「W杯アジアベストイレブン」に選出された。
日本代表監督として本田を4年間指導していたアルベルト・ザッケローニは「素晴らしい技術に恵まれた偉大なプロ意識の持ち主だ。日本人選手としては珍しいタイプで、フィジカルが強い。際立ったパーソナリティーがあり、試合の中で多くのボールを必要とする」「ピッチの上では自分の方法でリーダーになることを知っている」と評した。2016-17シーズンに本田がACミランで控えになった際には、本田がサイドのポジションで起用されることに懐疑的な見解を示し「これは私が昔から言っていることで、彼はトップ下の選手なんだ。彼は足下でボールを受けて、そこからアイディアを出す。彼は100本のパスを送る必要があり、そうしても決して疲れることはない」とあくまでトップ下が適正ポジションだと言及。「決して落第ではない。ミランは色んな問題もあり、本田という選手を生かし切れなかった」と分析した。
レオニード・スルツキーはCSKAモスクワ監督時代に「本田は最高のテクニックを備えた選手だ。ビッグクラブでも十分にやっていけるだけの強い精神力も持っている。高精度のラストパスに強烈なシュートと、近代サッカーの司令塔に求められる資質を全て兼ね備えた選手。本田はビッグクラブでプレーするのがふさわしい。彼はプロとして非の打ち所がない男だ。」と評した。また、フィテッセ監督時代には「ケイスケはロボットだよ。食事、睡眠、トレーニング、準備、コンディションなど全てが適正だ。確かに彼は決してスピードのある素早い選手ではない。だが、スピード以外のクオリティーは十分。彼は私の指導者人生のなかで、最高の選手の1人だ」と絶賛した。
2010年のFIFAワールドカップ・南アフリカ大会敗退直後、アーセナル監督のアーセン・ヴェンゲルから、「天才」「ここまでのベストプレーヤー」「間違いなくトップレベル」「日本のさらなる成長のためには本田のように能力が揃っているクローン選手を育成するべき、それが無理なら本田をさらに活かすためにビジャのような相棒を探すべき」との絶賛を受けた。FIFAの技術研究グループが作成したW杯南アフリカ大会の報告書では、松井大輔とともにドリブル技術が高いと評価された。2010年10月には、サッカー情報サイト『goal.com』が、アジア人最高のサッカー選手と称える記事を掲載した。
2014年のFIFAワールドカップ・ブラジル大会敗退後に日本のメディアからは批判もされたが、コートジボワール戦をイタリアのガゼッタ・デロ・スポルト、フランスのル・モンド、レキップ、コロンビア戦をブラジルのプラカール誌、ガゼッタ・エスポルチーバ、ランセ紙、フォーリャ紙 では高評価が与えられた。グループリーグ終了後にFIFAは、公式分析システムのカストロール・インデックスを使い、出場全選手736人のランキングを10点満点で発表し、本田は8.96点の全体37位および日本選手では最上位と採点した。
2013-14シーズン途中に移籍したACミランでは、クラブOBのアレッサンドロ・コスタクルタに「現時点での本田は『ミランの10番』どころか、単に『ミランの一員』としても認めるわけにはいかないレベルにある、と言わざるを得ない」、同OBのパオロ・マルディーニはミランの低迷を踏まえて「その救世主たり得るだけの実力を本田は残念ながら持ち合わせてはいない」 と評された。
しかしOBでミラン監督のフィリッポ・インザーギは2014-15シーズン前から「本田は勝利に必要なスピリットを随所で見せられる選手。(イタリアメディアが)本田に対して過小評価の報道をするのに納得できない」と、イタリアで報じられる本田不要説を一蹴。2014-15シーズン開幕後、元イタリア代表DFフルヴィオ・コッロヴァーティは「本田には驚いた。異なるサッカーから来た選手だからね。いいクオリティーを持った選手だ。」、 ミランOBのマウリツィオ・ガンツは「本当に素晴らしい活躍を見せている。ミランのクオリティを高めた」、イタリア高級紙コリエーレ・デラ・セラは本田の得点力を「ミランのチェッキーノ(Cecchino:射撃の達人)」という異名をつけ、ガゼッタ・デロ・スポルトは「美徳と勇気を備えた男」と、関係者・マスコミが次々と評価を翻した。
父親は熊本県坂本村の出身。母親は広島県出身。実兄の弘幸も元サッカー選手で2005年には大分トリニータ加入が決まっていたが、けがのために現役を引退し、現在は本田の代理人を務めている。
大叔父の本田大三郎は1964年東京オリンピックでカヌー競技のカナディアンペアに出場。その息子の本田多聞(圭佑の父母の従兄弟、圭佑からみて従兄弟違いになる)はレスリングのフリースタイルで3大会連続のオリンピック出場経験を持つ現役プロレスラーである。
2008年7月に元保育園勤務の保育士の女性と結婚。2012年秋に第一子となる長男が誕生した。
1999年から2004年に週刊少年サンデーで連載されていたサッカー漫画『ファンタジスタ』のファンであり、2009年に作者の草場道輝と対談。これがきっかけで、2012年10月から2015年まで連載されたファンタジスタの続編『ファンタジスタ ステラ』に原案という形で参画し、本人役で登場した。
名古屋時代は黒髪だったが、オランダ移籍後から金髪にしており、現在では本田のトレードマークになっている。
プライベートでは、いつも両腕に腕時計をつけている。2011年10月にはイタリアの腕時計メーカー・GaGa MILANOとスポンサー契約を結んだ。両腕にはめる理由について、2008年に安田理大から尋ねられたときは「誰が時計は片腕って決めたん?」とはぐらかしていたが、2013年(CSKAモスクワ在籍中)にロシア誌『Futbol』のインタビューを受けた際は「僕のスタイルだからだが別の意味もある。1つはロシア時間、もう1つは日本時間。間違えて夜中に電話やメールをしないように」と答えている。このエピソードは本田の物真似をする芸人のじゅんいちダビッドソンも用いている。
スパイクはミズノ『イグニタス』を使用している。W杯後に本田の活躍によりこのスパイクが急激に売れたとのこと。ちなみに右足は26.5 cm、左足は27.0cmとサイズが異なるだけでなく、2010年W杯のときは右足のポイントを付け替え式、左足を固定式とするなど、左右非対称の構成を採用している。またメンテナンスは欧州移籍後も古巣・名古屋グランパスの用具担当である松浦紀典に依頼しており、松浦によれば「年間で約10 - 15足ほどを消費する」という。
ファッションがメディアに取り上げられることが多い。2010年の南アフリカワールドカップから帰国した際は、チーム内では唯一サングラス姿で到着ロビーに現われた。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
2012年5月、自身がプロデュースするサッカースクール「SOLTILO FAMILIA」を地元の大阪に開校。SOLTILOはスペイン語の「SOL=太陽」と「ESTILO=スタイル」からの造語で、FAMILIAは家族を意味する。日本国内に50校(関西、関東、東北、東海、北陸、九州)、海外では8校(中国、カンボジア、タイ)を展開している(2022年3月時点)。
「才能とは生まれ持ったものではなく、環境によって磨き上げられるもの。大きな夢を持ち、物事がうまくいかなかったときにも心の折れない人材を育成し、才能を開花させるために必要な環境、機会を与える」のがスクールのミッション。一現役選手がこれだけ本格的にスポーツビジネスに参画するのは、本場欧州でも異例である。「誰も成しえていないことに挑戦する」という本田の哲学を体現するスクール経営を目指している。
2015年6月9日、自身のマネジメント事務所である「HONDA ESTILO株式会社」がオーストリア3部リーグのSVホルンの経営に参入することを発表した。多くのメディアでは「クラブ買収」と報道されたがこれは誤報であり、SVホルンのドイツ語公式HPでは「HONDA ESTILOは我がクラブに投資をする新しい業務提携パートナーである」と発表されている。SVホルンのルドルフ・ラウドン会長は本田サイドとの合意事項は3年であり、2018-19シーズン終了時までのパートナーシップ契約を結んでいると説明している。
欧州では下部リーグであってもトップチームにスカウトされるチャンスがあるため、若くして欧州でプレーする選手を増やしたいという意図がある。本田は現役選手としてプレーしているため現地でクラブの業務に関わることはできないが、毎日スタッフと連絡を取り合い近況報告を聞くだけではなく、自らもピッチ内のことに限らず集客などの細かいアイデアを出している。
また、本田とHONDA ESTILOはIT活用による選手強化やチームのパフォーマンス改善にも取り組んでおり、ドイツのソフトウェア企業SAPと協力して、選手達のトレーニングや試合中のデータを分析して育成に繋げる取り組み「HONDA NO LIMITS PROJECT」の開始を発表した。 同プロジェクトではバイエルン・ミュンヘンや横浜F・マリノスでも採用されている「SAP HANA」をデータ分析ツールとして利用する。同ツールは2014年サッカーワールドカップでドイツ代表の優勝に貢献したことから、HONDA ESTILOの同取り組みはスポーツビジネス界やIT業界でも大きく注目を集めた。
1年目の2015-16シーズンは3部リーグ優勝し、エアステリーガ(オーストリア2部リーグ)昇格を果たした。しかし、2016-17シーズンは成績が振るわず、1年で3部降格となった。2017-18シーズンは3部リーグ優勝し、1年で2部返り咲きを果たした。
2018-19シーズン終了後に「HONDA ESTILO株式会社」のSVホルンからの撤退が発表された。
2016年12月26日、カンボジアのシェムリアップ・アンコールFCの経営に携わることを発表し、実質的なオーナーになった。チーム名をソルティーロ・アンコールFCに改称した。2021シーズンは最下位に沈んで2部降格。2022年は2部リーグで12チーム中7位となっていたが、このシーズンを最後に解散した。
2017年9月11日、ウガンダ・プレミアリーグ(1部)のブライト・スターズFCを買収し、実質的なオーナーになった。チーム名をソルティーロ・ブライトスターズFCに改称した。
2020年1月14日、東京都を拠点とする「One Tokyo」を新たに立ち上げすることを発表した。
2021年3月14日、「One Tokyo」をあらたに「Edo All United」として改名することを発表した。
2022年11月24日、来季よりプロ化を目指して活動していくことを発表した。
ユース経歴
プロ経歴
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2004 | 名古屋 | 39 | J1 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | 1 | 0 | |
2005 | 24 | 31 | 2 | 2 | 0 | 2 | 0 | 35 | 2 | ||
2006 | 29 | 6 | 4 | 2 | 1 | 0 | 34 | 8 | |||
2007 | 30 | 3 | 3 | 0 | 2 | 0 | 35 | 3 | |||
オランダ | リーグ戦 | リーグ杯 | KNVBカップ | 期間通算 | |||||||
2007-08 | VVV | 29 | エールディヴィジ | 14 | 2 | - | - | 14 | 2 | ||
2008-09 | 10 | エールステ | 36 | 16 | - | 1 | 0 | 37 | 16 | ||
2009-10 | エールディヴィジ | 18 | 6 | - | 2 | 2 | 20 | 8 | |||
ロシア | リーグ戦 | ロシア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2010 | CSKAモスクワ | 7 | ロシア・プレミア | 28 | 4 | 5 | 0 | - | 33 | 4 | |
2011-12 | 25 | 8 | 1 | 0 | - | 26 | 8 | ||||
2012-13 | 23 | 7 | 3 | 1 | - | 26 | 8 | ||||
2013-14 | 18 | 1 | 0 | 0 | - | 18 | 1 | ||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2013-14 | ミラン | 10 | セリエA | 14 | 1 | 2 | 1 | - | 16 | 2 | |
2014-15 | 29 | 6 | 1 | 0 | - | 30 | 6 | ||||
2015-16 | 30 | 1 | 7 | 1 | - | 37 | 2 | ||||
2016-17 | 8 | 1 | 1 | 0 | - | 9 | 1 | ||||
メキシコ | リーグ戦 | コパMX | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2017-18 | パチューカ | 02 | リーガMX | 29 | 10 | 5 | 3 | - | 34 | 13 | |
オーストラリア | リーグ戦 | リーグ杯 | FFA杯 | 期間通算 | |||||||
2018-19 | メルボルン・V | 4 | Aリーグ | 18 | 7 | - | 0 | 0 | 18 | 7 | |
オランダ | リーグ戦 | リーグ杯 | KNVBカップ | 期間通算 | |||||||
2019-20 | フィテッセ | 33 | エールディヴィジ | 4 | 0 | - | - | 4 | 0 | ||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2020 | ボタフォゴ | 4 | セリエA | 18 | 2 | 5 | 0 | - | 23 | 2 | |
アゼルバイジャン | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2020-21 | ネフチ・バクー | 4 | プレミア | 7 | 2 | - | - | 7 | 2 | ||
リトアニア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2021 | FKスードゥヴァ | 3 | Aリーガ | 6 | 1 | - | - | 6 | 1 | ||
通算 | 日本 | J1 | 90 | 11 | 10 | 2 | 5 | 0 | 105 | 13 | |
オランダ | エールディヴィジ | 36 | 8 | - | 2 | 2 | 38 | 10 | |||
オランダ | エールステ | 36 | 16 | - | 1 | 0 | 37 | 16 | |||
ロシア | ロシア・プレミア | 94 | 20 | 9 | 1 | - | 103 | 21 | |||
イタリア | セリエA | 81 | 9 | 11 | 2 | - | 92 | 11 | |||
メキシコ | リーガMX | 29 | 10 | 5 | 3 | - | 34 | 13 | |||
オーストラリア | Aリーグ | 18 | 7 | - | 0 | 0 | 18 | 7 | |||
ブラジル | セリエA | 18 | 2 | 5 | 0 | - | 23 | 2 | |||
アゼルバイジャン | プレミア | 7 | 2 | - | - | 7 | 2 | ||||
リトアニア | Aリーガ | 6 | 1 | - | - | 6 | 1 | ||||
総通算 | 415 | 86 | 40 | 8 | 8 | 2 | 463 | 96 |
2004年は特別指定選手として出場。
国際大会個人成績 | FIFA | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
UEFA | UEFA EL | UEFA CL | クラブW杯 | |||||
2009-10 | CSKAモスクワ | 18 | - | 4 | 1 | - | ||
2010-11 | 7 | 7 | 1 | - | - | |||
2011-12 | - | 1 | 0 | - | ||||
2013-14 | - | 6 | 2 | - | ||||
CONCACAF | CONCACAF CL | - | クラブW杯 | |||||
2017 | パチューカ | 02 | - | - | 2 | 0 | ||
AFC | ACL | - | クラブW杯 | |||||
2019 | メルボルン・V | 4 | 4 | 1 | - | - | ||
通算 | UEFA | 7 | 1 | 11 | 3 | 2 | 0 | |
通算 | CONCACAF | - | - | 2 | 0 | |||
通算 | AFC | 4 | 1 | - | - |
チーム | 就任 | 退任 | 記録 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 % | |||
カンボジア | 2018年 | 2023年 | 16 | 3 | 3 | 10 | 18.75 |
合計 | 16 | 3 | 3 | 10 | 18.75 |
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2008 | 1 | 0 |
2009 | 10 | 3 |
2010 | 12 | 3 |
2011 | 8 | 2 |
2012 | 9 | 4 |
2013 | 12 | 8 |
2014 | 13 | 4 |
2015 | 14 | 10 |
2016 | 7 | 2 |
2017 | 5 | 0 |
2018 | 7 | 1 |
通算 | 98 | 37 |
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2009年5月27日 | 日本、大阪 | チリ | ○4-0 | キリンカップサッカー2009 |
2. | 2009年10月10日 | 日本、横浜 | スコットランド | ○2-0 | キリンチャレンジカップ2009 |
3. | 2009年10月14日 | 日本、宮城 | トーゴ | ○5-0 | |
4. | 2010年3月3日 | 日本、豊田 | バーレーン | ○2-0 | AFCアジアカップ2011 予選 |
5. | 2010年6月14日 | 南アフリカ、ブルームフォンテーン | カメルーン | ○1-0 | 2010 FIFAワールドカップ |
6. | 2010年6月24日 | 南アフリカ、ルステンブルク | デンマーク | ○3-1 | |
7. | 2011年1月13日 | カタール、ドーハ | シリア | ○2-1 | AFCアジアカップ2011 |
8. | 2011年8月10日 | 日本、札幌 | 韓国 | ○3-0 | キリンチャレンジカップ2011 |
9. | 2012年6月3日 | 日本、埼玉 | オマーン | ○3-0 | 2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選 |
10. | 2012年6月8日 | 日本、埼玉 | ヨルダン | ○6-0 | |
11. | |||||
12. | |||||
13. | 2013年2月6日 | 日本、神戸 | ラトビア | ○3-0 | キリンチャレンジカップ2013 |
14. | 2013年6月4日 | 日本、埼玉 | オーストラリア | △1-1 | 2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選 |
15. | 2013年6月19日 | ブラジル、レシフェ | イタリア | ●3-4 | FIFAコンフェデレーションズカップ2013 |
16. | 2013年8月15日 | 日本、宮城 | ウルグアイ | ●2-4 | キリンチャレンジカップ2013 |
17. | 2013年9月6日 | 日本、大阪 | グアテマラ | ○3-0 | |
18. | 2013年9月10日 | 日本、横浜 | ガーナ | ○3-1 | |
19. | 2013年11月16日 | ベルギー、ヘンク | オランダ | △2-2 | 国際親善試合 |
20. | 2013年11月19日 | ベルギー、ブリュッセル | ベルギー | ○3-2 | |
21. | 2014年6月6日 | アメリカ、タンパ | ザンビア | ○4-3 | |
22. | |||||
23. | 2014年6月14日 | ブラジル、レシフェ | コートジボワール | ●1-2 | 2014 FIFAワールドカップ |
24. | 2014年11月14日 | 日本、豊田 | ホンジュラス | ○6-0 | キリンチャレンジカップ2014 |
25. | 2015年1月12日 | オーストラリア、ニューカッスル | パレスチナ | ○4-0 | AFCアジアカップ2015 |
26. | 2015年1月16日 | オーストラリア、ブリスベン | イラク | ○1-0 | |
27. | 2015年1月20日 | オーストラリア、メルボルン | ヨルダン | ○2-0 | |
28. | 2015年3月27日 | 日本、大分 | チュニジア | ○2-0 | キリンチャレンジカップ2015 |
29. | 2015年6月11日 | 日本、横浜 | イラク | ○4-0 | |
30. | 2015年9月3日 | 日本、埼玉 | カンボジア | ○3-0 | 2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選 |
31. | 2015年9月8日 | イラン、テヘラン | アフガニスタン | ○6-0 | |
32. | 2015年10月8日 | オマーン、マスカット | シリア | ○3-0 | |
33. | 2015年11月12日 | シンガポール、カラン | シンガポール | ○3-0 | |
34. | 2015年11月17日 | カンボジア、プノンペン | カンボジア | ○2-0 | |
35. | 2016年3月29日 | 日本、埼玉 | シリア | ○5-0 | |
36. | 2016年9月1日 | 日本、埼玉 | アラブ首長国連邦 | ●1-2 | 2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選 |
37. | 2018年6月24日 | ロシア、エカテリンブルク | セネガル | △2-2 | 2018 FIFAワールドカップ |
This article uses material from the Wikipedia 日本語 article 本田圭佑, which is released under the Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 license ("CC BY-SA 3.0"); additional terms may apply (view authors). コンテンツは、特に記載されていない限り、CC BY-SA 4.0のもとで利用可能です。 Images, videos and audio are available under their respective licenses.
®Wikipedia is a registered trademark of the Wiki Foundation, Inc. Wiki 日本語 (DUHOCTRUNGQUOC.VN) is an independent company and has no affiliation with Wiki Foundation.