出雲大社(いづもおおやしろ/いずもおおやしろ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社。神社本庁の別表神社。宗教法人出雲大社教の宗祠。
出雲大社 | |
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拝殿(手前)と本殿(右奥、国宝) | |
所在地 | 島根県出雲市大社町杵築東195 |
位置 | 北緯35度24分7.4秒 東経132度41分7.6秒 / 北緯35.402056度 東経132.685444度 東経132度41分7.6秒 / 北緯35.402056度 東経132.685444度 |
主祭神 | 大国主大神 |
社格等 | 式内社(名神大) 出雲国一宮 旧官幣大社 勅祭社 別表神社 |
創建 | 神代とされる |
本殿の様式 | 大社造 |
別名 | 杵築大社 |
札所等 | 出雲國神仏霊場1番 |
例祭 | 5月14日 - 16日 |
主な神事 | 神在祭など |
地図 |
古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。正式名称は出雲大社サイトには「いづもおおやしろ」、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とある(前者は現代仮名遣いと歴史的仮名遣いが混在、後者は現代仮名遣い)。歴史的仮名遣いでは「いづもおほやしろ」となる。
一般的には「いづもたいしゃ」と読まれており、複数の辞書・事典でも見出しの読みを「いずもたいしゃ」としている。島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』では出雲大社の項目は正式名称の「いずもおおやしろ」として掲載する一方、出雲大社本殿(いずもたいしゃほんでん)など登録文化財の項目については登録名に従った読みで掲載している。
古文書に見える社名は次のとおり。
出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された。867年(貞観9年)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった。中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。
出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。
以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々である。共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。
また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。
出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった。
やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた(本来国引きは八束水臣津野命)ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。
さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。
ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微した。このため1667年(寛文7年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められた。仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。これに併せて祭神は須佐之男命から、『古事記』『日本書紀』などの記述に沿って大国主大神に復した。
祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。ただし『出雲国風土記』ではこの名ではなく大穴持命または所造天下大神大穴持命となっている。
1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈(たいか)、国中第一之霊神」と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、全ての神が出雲に出向くわけではない。
そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神として現れるほどに、全国的な信仰を集めるようになった。
創建以来、天照大御神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたとされるが、本来出雲国造家は東出雲の熊野大社の社家であった。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後に太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任。翌年、神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく、黒綾にご神紋である二重亀甲剣唐花の文様を練り込んだものである。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部および大屋根が公開されることがある。
「現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている」ともされるが、次の通り天皇の出雲大社親拝の記録がある。
出雲国造は、天照大御神の第二御子の天穂日命(あめのほひのみこと)の神裔である。
出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代の康永年間に千家家と北島家の2家に分裂した。その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降は千家家が執り行っている。
以上のように大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。
1951年(昭和26年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教は一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動している。
本来は出雲の氏子のみを対象に行っていた祭礼。現在では、他県から訪れるものも、神殿において、地鎮祭の式典が行われ、新築や増築工事に対する地鎮祭が行われる。その地鎮祭を出雲屋敷地鎮祭という。式典後、土地に鎮める「御土」「鎮め物」、また中央、四方、五カ所の柱に貼る御札を頂き、それを五柱御札という。土地や建物の穢れをなくし、鬼門という考え方もいっさいなくなる式典となる。※神語三唱や御神土埋納、四拍手など特殊性がある。出雲屋敷後、年々多少の初穂を献納する出雲年貢を行う地域がある。
玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。(なお、本殿瑞垣外ではあるが、本殿の真後ろには、八雲山との間に唯一鎮座する社として、須佐之男命を祀る出雲神社「素鵞社、そがのやしろ。式内社」がある。)この理由には諸説があり、そのうちの1つは寛文6年(1666年)に長州の大名・毛利家が寄進した出雲大社の荒垣入口の銅鳥居に刻まれた銘に、「一を日神といい、二を月神といい、三を素戔嗚というなり。日神とは地神五代の祖天照太神これなり。月神とは月読尊これなり。素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり」とあり、出雲大社の祭神がスサノオ尊とされていた時代があり、参拝者は大国主ではなくスサノオ尊を正面から拝むようになっている、とする説である。また、「本殿が古代の高床建物(高床住居や高床倉庫)とほぼ同じ構造になっているため、高床建物における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるため」との説もある。天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(およそ24m)と、神社としては破格の大きさである。
本居宣長が『玉勝間』に引いたところによれば、かつての本殿は現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があるとされる。同じ出典にある、「金輪造営図」と併せて想定される姿は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものになる。上古については流石に神話と看做すとしても、16丈あったとすると東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈≒45m)や平安京大極殿より大きかったということになる。
この説については賛否両論あり、肯定する意見としては、平安時代に源為憲によって作られた『口遊』で数え歌に歌われていることが論拠に挙げられる。これは「雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎」というもので、「雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。」を元にしている。ただし異論として。その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順を著しているとの説や、複数の記録により、複数回倒壊していることがわかっていること(『百錬抄』『左経記』『千家家古文書』『中右記』『北島家文書』などの記述によれば、平安中期から鎌倉時代初めまでの約200年間に7度も倒壊している)といった傍証が挙げられている。上古32丈についても、山に建てたものについて、その標高を述べたものと附会すれば、不自然では無いという意見もある。高層建築が必要とされたのは別天津神の祭祀と関係があるとする説もある。一方で、前述したように明確な文献が『玉勝間』と江戸時代まで下ること、証拠とされているものがいずれも傍証にとどまること、32丈説や後述するプロジェクトなどで想定している「山」が、そもそもただの山ではなく神域であり工事が入ることなどめっそうもないといった点が否定要素である。
建築学的な可能性としては、福山敏男と大林組によるプロジェクトにより検討され『古代出雲大社の復元』(学生社、1989年)として出版されている。
2000年(平成12年)、地下祭礼準備室の建設に伴う事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと騒がれ、16丈説があたかも確認された事実であるかのごとく報道されることもあった。結局、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年(宝治2年)造営の本殿である可能性が高いと分析されている。ただし発見されたものが古代の本殿ではなくとも、16丈であったことの証明になる可能性があると書かれた教科書や書籍もある。
2017年(平成29年)にリニューアルオープンした展示施設「神祜殿」では、出土した柱や、高い位置にある本殿と地上を長い階段でつないだ古代の姿の想像模型が展示されている。
2008年(平成20年)の「仮殿遷座祭」以降、本殿の屋根等の大改修が行われており、2013年(平成25年)5月には御祭神を仮殿から改修が完了した本殿へ再び遷座する「本殿遷座祭」が行われた(平成の大遷宮)。出雲大社の遷宮は概ね60 - 70年毎に行われている。
出雲大社の文化財一覧。
出雲大社の最大の特徴として日供祭が挙げられる。日供祭は通常どの神社でも朝と夕に神に食事を差し上げる祭りを行うが、出雲大社では毎日宮司が自らこれを行う建前である。大概の神社では当番で1人にて奉仕するものであるが、出雲大社ではあくまでも大国主命のお祭りは天穂日命が行うという神代よりの掟に従い、宮司が7、8人の神職を従えて奉仕するのが基本である。ただし実際には、しばしば代理の神職により奉仕される。
出雲大社には琴板(こといた)という楽がある。杉板製で、長さ約79センチ、幅約24センチの箱型を呈するもので、裏側に約11センチの穴があいている。弦は張ってなく、約71センチの柳の枝の撥で打って演奏する。的射祭、古伝新嘗祭、国造百番舞、国造三番舞で奏でられる。タマフリ、タマシズメの意味などがあるという。非常に原始的な古い楽器で重要である。
祭事では、出雲笛(いずもぶえ)を用いる。献饌時には「フルヘユラトフルヘ」と吹くが、これは「布瑠倍由良止布瑠倍」であり、十種神宝に由来する。出雲笛は竹製桜皮巻の横笛で、出雲地方で作られ、実に神秘的な音色を奏でる。
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