ドーハの悲劇(ドーハのひげき, 英語: Agony of Doha or Tragedy of Doha)は、1993年10月28日 にカタールの首都・ドーハのアル・アリ競技場で行われたサッカーの国際試合、日本代表対イラク代表戦の日本における通称。
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
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開催日 | 1993年10月28日 | ||||||
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会場 | アル・アリ競技場( カタール ドーハ) | ||||||
最優秀選手 | 中山雅史 | ||||||
主審 | セルジュ・ムーメンターラー |
1994年開催のFIFA ワールドカップ・アメリカ大会への出場国を決めるアジア地区最終予選において、日本は第4戦終了時点で勝ち点・勝率において「予選グループ1位」となり、初のワールドカップ本戦出場に王手をかけていた。
しかし、最終第5節イラク戦において、試合終了間際まで2-1でリードしていながら、ロスタイム残り数秒でコーナーキックで同点ゴールを入れられた。その結果、韓国に勝ち点で並ばれ得失点差で敗れて、「予選グループ3位」となり予選敗退となった。
1991年11月にスタートしたJリーグにより、社会的なサッカーブームで多くのファンや国民が注目した試合であり、わずかあと数秒で1位通過という熱狂のピークから一転して、念願であった日本サッカー初のワールドカップ本戦出場が目前で消え去ったことから、マスコミ各社でも大きく取り扱われた。
また、日本とは対照的に、日本の予選敗退によって得失点差で本選出場を決めた韓国では、ドーハの奇跡(ドーハのきせき, 朝鮮語: 도하의 기적, 英語: Miracle of Doha)と呼ばれ、こちらも韓国では大きな話題となった。
なお、日本がワールドカップ本戦の初出場を決めたのは、ドーハの悲劇から4年後のFIFA ワールドカップ・フランス大会のアジア最終予選である。1997年11月16日、アジア第3代表決定戦をイラン代表と戦い、勝利を収めた試合は「ジョホールバルの歓喜」と呼称された。
アジア地区最終予選は、ドーハでの集中開催方式にて行われた。1次予選A〜F組を1位通過した6か国が総当たりのリーグ戦で対戦し、上位2か国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。日本は1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて最終予選へ進出した。一方のイラクは2次予選A組で6勝1分1敗で勝点13、中国を勝点1差で抑えて進出した。
日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で分け、第2戦のイラン戦を1-2で落としこの時点では6か国中最下位に転落。オフト監督はイラン戦を契機にスタメンの入れ替えを敢行。
累積警告により出場停止となった高木琢也に変えてイラン戦終了間際にゴールを決めた中山雅史に。ディフェンスの立て直しを図るため三浦泰年からCBが本職の勝矢寿延を左SBに。不調の福田正博に変わりベテランの長谷川健太にスタメンを入れ替え迎えた第3戦は、北朝鮮に3-0で快勝した。
第4戦ではそれまでW杯と五輪のアジア予選で一度も勝利がなかった韓国と対戦し、三浦知良のゴールで1-0で勝利し、この時点で韓国に代わり首位に立った。守備は6チーム中最少失点(4試合中3試合を完封)、スーパーサブからスタメンに起用された中山雅史が攻撃を活性化するなど、攻守のバランスは上向いていた。
一方のイラクは初戦の北朝鮮戦で2点を先取しながら退場者を出し、2-3で逆転負けを喫すると、試合後にイラクサッカー協会は監督を更迭。1980年代に2度五輪チームを率いたアモ・ババを監督に招いて迎えた第2戦の韓国戦は86分に追いつき2-2で引き分け。第3戦でイラン戦に2-1で勝利すると、第4戦ではサウジアラビアに1-1で引き分けた。6チーム中最多の7得点を挙げながら、失点も7失点という出入りの激しいサッカーをしていた。
最終戦となる第5戦を残した第4戦終了時点の順位・対戦表は以下のとおり。
順 | チーム | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 差 | 点 | |||||||
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1 | 日本 | 4 | 2 | 1 | 1 | 5 | 2 | +3 | 5 | 0–0 | 1–0 | 1–2 | 3–0 | |||
2 | サウジアラビア | 4 | 1 | 3 | 0 | 4 | 3 | +1 | 5 | 0–0 | 1–1 | 1–1 | 2–1 | |||
3 | 韓国 | 4 | 1 | 2 | 1 | 6 | 4 | +2 | 4 | 0–1 | 1–1 | 2–2 | 3–0 | |||
4 | イラク | 4 | 1 | 2 | 1 | 7 | 7 | 0 | 4 | 1–1 | 2–2 | 2–1 | 2–3 | |||
5 | イラン | 4 | 2 | 0 | 2 | 5 | 7 | −2 | 4 | 2–1 | 0–3 | 1–2 | 2–1 | |||
6 | 朝鮮民主主義人民共和国 | 4 | 1 | 0 | 3 | 5 | 9 | −4 | 2 | 0–3 | 1–2 | 3–2 | 1–2 |
この段階で日本とサウジアラビアが出場圏内の1、2位に位置していたとはいえ、すでに敗退が確定していた北朝鮮を除く5位までの5か国のいずれにも最終戦の結果次第で本大会出場・敗退の可能性が残されていた。また、日本とサウジアラビアは引き分け以上が、韓国・イラク・イランは勝利が、本大会出場の最低条件であり、どのチームにとっても予断を許さない状況で迎えた最終戦となった。
同日・同時刻キックオフで行われた最終戦(第5戦)3試合の組み合わせは
となっていた。各試合の結果による勝点等の成績をまとめると下表のようになる。
日本 - イラク | 日本 | イラク | ||||
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勝点 | 得失差 | 得点 | 勝点 | 得失差 | 得点 | |
日本が勝った場合 | 7 | +4以上 | 6以上 | 4 | -1以下 | 7以上 |
引き分けの場合 | 6 | +3 | 5以上 | 5 | 0 | 7以上 |
イラクが勝った場合 | 5 | +2以下 | 5以上 | 6 | +1以上 | 8以上 |
サウジアラビア - イラン | サウジアラビア | イラン | ||||
勝点 | 得失差 | 得点 | 勝点 | 得失差 | 得点 | |
サウジアラビアが勝った場合 | 7 | +2以上 | 5以上 | 4 | -3以下 | 5以上 |
引き分けの場合 | 6 | +1 | 4以上 | 5 | -2 | 5以上 |
イランが勝った場合 | 5 | 0以下 | 4以上 | 6 | -1以上 | 6以上 |
韓国 - 北朝鮮 | 韓国 | 北朝鮮 | ||||
勝点 | 得失差 | 総得点 | 勝点 | 得失差 | 総得点 | |
韓国が勝った場合 | 6 | +3以上 | 7以上 | 2 | -5以下 | 5以上 |
引き分けの場合 | 5 | +2 | 6以上 | 3 | -4 | 5以上 |
北朝鮮が勝った場合 | 4 | +1以下 | 6以上 | 4 | -3以上 | 6以上 |
本大会出場(勝点7) | 最終予選敗退(勝点5以下) |
日本は最終戦の結果が以下のいずれかの場合で本大会出場を確定させることができた。
逆に、以下の場合日本の予選敗退が確定する状況にあった。
サウジアラビア(対イラン)
韓国(対北朝鮮)
イラク(対日本)
イラン(対サウジアラビア)
第4戦終了時点において首位の日本は、勝てば他会場の試合結果にかかわらず出場決定となり、引き分けでもサウジアラビアと韓国のいずれかが引き分け以下で、且つイランが勝っても4点差以内、あるいはどちらも勝った場合であっても、韓国が北朝鮮に1点差で勝利した場合(即ち得失点差で日本と同数となる場合)には、日本の総得点が韓国と同数以上であれば日本が出場権を得られるという、かなり有利な条件で日本は最終戦に臨んだ。
一方、イラクは日本戦での勝利がまず必要となり、加えてサウジアラビア-イラン戦が引き分けかイランの2点差以内勝利(3点差以上の場合は得失点・総得点でイランとの争い)または韓国が北朝鮮に対し引き分けか敗れた場合には、1986年メキシコ大会に続く2度目のW杯本大会出場が実現する状況だった。
韓国は第4戦の日本開始前まで首位を走っていたものの、イラク戦・サウジアラビア戦ともリードしながら試合終了間際に同点ゴールを与え、勝ち点2をとりこぼしていた。残る相手は予選で敗北経験がない日本と最終戦で戦う最下位の北朝鮮だったが、日本戦で敗北を喫したために3位に転落し、自力出場の可能性が消滅。最終戦で勝利しても日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は本大会出場ができない状況にあった。
第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきたが、最終戦は3試合同時進行のため、日本-イラク戦はアル・アリ競技場で開催された。観客席はイラクのサポーターが多数を占めたが、遠来の日本サポーターも懸命に声援を送った。
両国の過去の対戦成績は日本の1引き分け3敗で、ロサンゼルス五輪アジア・オセアニア地区最終予選(1984年4月21日 日本 1-2 イラク)以来9年半ぶりの対戦となる。第4戦からイラクは中3日、日本は中2日を挟んで最終戦に臨む。
日本は、北朝鮮戦・韓国戦で成功した4-3-3システムを継続。前線には三浦知良・中山雅史・長谷川健太が変則3トップ気味に並ぶ。中盤のボランチのポジションには、韓国戦で活躍した北澤豪に替わり、出場停止明けの森保一が戻った。イラクは出場停止処分が重なり、主力数名を欠いた布陣で臨んだ。
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本大会出場(2位以上) | 最終予選敗退(3位以下) |
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選手の所属クラブ名は当時のもの。「 」はキャプテン。
ゴールキーパー | ||
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1 | 松永成立 | 横浜マリノス |
19 | 前川和也 | サンフレッチェ広島 |
ディフェンダー | ||
2 | 大嶽直人 | 横浜フリューゲルス |
3 | 勝矢寿延 | 横浜マリノス |
4 | 堀池巧 | 清水エスパルス |
5 | 柱谷哲二 | ヴェルディ川崎 |
6 | 都並敏史 | ヴェルディ川崎 |
7 | 井原正巳 | 横浜マリノス |
21 | 三浦泰年 | 清水エスパルス |
22 | 大野俊三 | 鹿島アントラーズ |
ミッドフィルダー | ||
8 | 福田正博 | 浦和レッズ |
10 | ラモス瑠偉 | ヴェルディ川崎 |
14 | 北澤豪 | ヴェルディ川崎 |
15 | 吉田光範 | ジュビロ磐田 |
17 | 森保一 | サンフレッチェ広島 |
18 | 澤登正朗 | 清水エスパルス |
フォワード | ||
9 | 武田修宏 | ヴェルディ川崎 |
11 | 三浦知良 | ヴェルディ川崎 |
12 | 長谷川健太 | 清水エスパルス |
13 | 黒崎比差支 | 鹿島アントラーズ |
16 | 中山雅史 | ジュビロ磐田 |
20 | 高木琢也 | サンフレッチェ広島 |
監督 | ハンス・オフト | |
コーチ | 清雲栄純 | |
GKコーチ | ディド・ハーフナー |
日本では、テレビ東京およびNHK BS1がテレビ中継を、ニッポン放送がラジオ中継を行った。
テレビ東京の放送では、現地実況を久保田光彦アナウンサー、解説を前田秀樹が務めた。東京のスタジオでは金子勝彦が司会を務め、ゲストとして釜本邦茂(当時:ガンバ大阪監督)、森孝慈(当時:浦和レッズ監督)、当時の日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一(当時:浦和レッズ選手)がいた。ロスタイムの同点ゴール時には久保田が「決まった!」と叫んだあと久保田、前田ともに一言も発せず、日本の制作スタッフは放送事故かと慌てたという。沈黙が30秒近く続いたあと、ようやく久保田が「仕方ないですね」と発した。試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても、金子、釜本、森、柱谷の四者とも呆然として何も言うことができず、特に柱谷は放送中にもかかわらず頭を抱え込み泣いていた。森はロスタイムの同点劇について「これがサッカーなんですよ」とコメントし、金子は「サッカーの世界では、天国と地獄を見て初めて本当のサポーターになれる」との言葉を紹介した。柱谷は、金子から「お辛いでしょうけど」と促され、絞り出すように「1カ月、辛かっただろうけど、胸を張って帰ってこい」と弟の哲二ら選手にメッセージを送った。番組の視聴率は日本時間の深夜帯にもかかわらず、同局史上最高の48.1%を記録した。
NHK BS1の放送では実況を山本浩アナウンサー、解説を田中孝司が務めた。スタジオでは友田幸岐が司会を務め、解説は岡田武史と田嶋幸三が担当した。試合終了後、岡田は言葉を詰まらせ、友田は「サッカーの怖さが出ました。何もこの試合じゃなくても良かったんじゃないかと…」とコメントした。岡田はこの4年後、1998年フランスワールドカップ最終予選中に急遽日本代表監督を引き継ぎ、ワールドカップ初出場を決めることになる(ジョホールバルの歓喜)。
ニッポン放送のラジオ中継は、実況が師岡正雄アナウンサー、解説は小谷泰介が務めた。イラクの2点目(同点ゴール)の直後に、小谷が「何ということだ……」とコメントしている。フジテレビでドーハの悲劇の映像が流れる際にはこのニッポン放送の実況音声が使われた。
日本サッカー協会強化委員会は同年11月5日に定例会議を開き、「修羅場での経験不足」を理由に翌1994年5月まで契約が残っていたハンス・オフト監督の解任を決定した。10日に川淵三郎強化委員長とオフト監督との間で会談が開かれ、翌11日に退任が正式発表された。 サッカー専門誌では、オフト監督の作り上げた組織的サッカーが、この予選中でアジアトップレベルのサッカーを披露したとし、その功績を認めながらも、オフト監督自身の指導力の限界を指摘した。
1994年、日本が出場を逃したワールドカップ・アメリカ大会でアジア勢は奮闘した。サウジアラビアはエースオワイランを中心に躍進。アジア勢として7大会振りのベスト16入りを果たす。土壇場で出場を決めた韓国も勝利を収めることはできなかったが、スペイン戦では試合終了5分前から2点差を追いつき、ドイツ戦でも3点ビハインドから1点差に追い上げ、あと1歩でW杯ベスト16に入るところだったなど前回大会全敗に終わったアジア勢の復活を印象付けた。
ドーハの悲劇から1年後、アジア予選突破・世界大会出場というフル代表が果たせなかった目標は、アンダー世代によって達成された。1994年9月、インドネシアで行われたアジアユース選手権に出場したU-19日本代表は準決勝でU-19イラク代表を3-0で破り、翌年のワールドユースカタール大会出場を決めた。その1ヵ月後、カタールで行われたU-16アジアユース選手権に出場したU-16日本代表は、アル・アリ競技場で行われた決勝戦を山崎光太郎の延長ゴールデンゴールで勝利し、U-17世界選手権エクアドル大会出場を決めた。U-17中心メンバーの小野伸二・高原直泰・稲本潤一らは1999年のワールドユースで準優勝し、「黄金世代」と呼ばれるようになる。
1996年、U-23日本代表がアトランタ五輪アジア最終予選でサウジアラビアと対戦した際には、ハーフタイム中に選手の興奮を鎮めたり、リードした後半に効果的に時間を稼ぐなどドーハの悲劇の教訓が活かされ、28年ぶりの五輪出場が成し遂げられた。
1998年のワールドカップ・フランス大会以降、アジア最終予選はホーム・アンド・アウェー方式で行われるようになった。日本は1997年のアジア最終予選でイランとの3位決定プレーオフに勝利してワールドカップ初出場を決めている(ジョホールバルの歓喜)。1994年大会出場を逃したいわゆる「ドーハ組」の中で、1998年大会の本戦メンバーに選ばれたのは中山雅史と井原正巳の2名のみだった。以後、日本は自国開催枠出場の2002年日韓大会を含め、2022年カタール大会まで7大会連続でワールドカップ出場を果たしている。
2011年、アジアカップ・カタール大会で日本代表は6試合中5試合をドーハで戦い、史上初となる4度目のアジア制覇を成し遂げ、「もうドーハは『悲劇の地』では無くなった」などと言われた。特に初戦のヨルダン戦では、敗色濃厚の後半ロスタイムにショートコーナーからヘディングで同点に追いつくという、まさに18年前の立場を逆にしたかのような試合展開であった。なお、大会中の日本代表は、アル・アリ競技場を練習会場として調整を行なった。
2013年、2014年ワールドカップ・ブラジル大会アジア最終予選においては、『日本 がドーハの地でイラク との最終戦 に臨む』ことが話題となった(試合は1-0で日本が勝利)。
2015年、アジアカップ・オーストラリア大会のグループD第2戦では、ドーハの悲劇にDFとして出場したラディ・シュナイシェルが指揮を執るイラクとブリスベンで対戦し、1-0で日本が勝利した。
2016年、リオデジャネイロ五輪アジア最終予選を兼ね、ドーハでアジアU-23選手権が行われた。準決勝ではU-23日本代表がU-23イラク代表と対戦し、後半48分に決勝点を奪ってリオデジャネイロ五輪本大会出場を決めた。この世代の選手は「ドーハの悲劇」が起きた1993年かそれ以降に生まれた選手たちだった。手倉森誠監督は勝利後のインタビューで「日本サッカー界のことを思えば、ロスタイムで取るあたり歴史を逆転させた。いい勝ち方だなと思う」と述べた。
2022年、ワールドカップ・カタール大会のグループステージにおいて、「ドーハの悲劇」当時のメンバーだった森保一監督が率いる日本代表は、優勝経験国であるドイツ、スペインを相手にそれぞれ2-1で逆転勝利し、ネット上では『ドーハの奇跡』『ドーハの歓喜』が注目ワードとなった。仮にスペイン戦で2-2の同点に追いつかれた場合、他会場で同時進行中のドイツ-コスタリカ戦の結果次第でグループ3位に転落し、敗退するという「ドーハの悲劇」に似たシチュエーションだったが、後半アディショナルタイム7分間をしのぎ切り、グループE1位でベスト16進出を決めた。なお、試合会場はいずれもドーハ近郊のライヤーンに所在するハリーファ国際スタジアムで、アル・アリ競技場とは異なっている。
東経51度32分7.1秒 / 北緯25.251611度 東経51.535306度
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