1998年長野オリンピック(1998ねんながのオリンピック)は、1998年(平成10年)2月7日から2月22日まで、日本の長野県長野市などで開催された20世紀最後の冬季オリンピック。日本で開催されたオリンピックとしては、平成唯一でもある。2022年現在、長野は、歴代の冬季オリンピック開催地のうち最南で、最も低緯度である。
1998年長野オリンピック | |
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第18回オリンピック冬季競技大会 XVIII Olympic Winter Games | |
開催都市 | 日本 長野 |
参加国・地域数 | 72 |
参加人数 | 2,302人(男子1,488人、女子814人) |
競技種目数 | 7競技68種目 |
開会式 | 1998年2月7日 |
閉会式 | 1998年2月22日 |
開会宣言 | 上皇(明仁)(平成の天皇) |
選手宣誓 | 荻原健司 |
審判宣誓 | 平松純子 |
最終聖火ランナー | 伊藤みどり |
主競技場 | 長野オリンピックスタジアム |
冬季 | |
夏季 | |
Portal オリンピック |
72の国(地域)から選手・役員4638人が参加し、延べ144万2700人の観客が会場に集った。
長野オリンピックの競技会場は、長野市の他にも白馬村、山ノ内町、軽井沢町、野沢温泉村に配置され、このうち人口が最も多く県庁所在地でもある長野市が主催都市(Host City)だった。そのため、1994年リレハンメルオリンピックおよび長野オリンピックの閉会式では、いずれも次回開催地への引き継ぎセレモニーで、長野市の塚田佐市長(当時)が出席した 。
1985年2月28日に信濃毎日新聞は、長野県への冬季オリンピック招致キャンペーンを開始した。同年3月25日に長野県議会はオリンピック招致決議を行った。その後は、長野県内の全市町村も招致決議を行った 。
1988年6月1日に行われた日本オリンピック委員会(JOC)の1998年冬季オリンピックの開催国内候補地選定投票で盛岡市、山形市、旭川市を破り、選定された。
長野オリンピックの開催は、1991年6月15日にイギリスのバーミンガムで開かれた第97回国際オリンピック委員会総会で決定された。2回目は1回目の最低得票がソルトレイクとアオスタの2都市になったために落選都市決定戦という形で行なわれた。
都市 | 国 | 1回目 | 2回目 | 3回目 | 4回目 | 5回目 |
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長野 | 日本 | 21 | - | 30 | 36 | 46 |
ソルトレイクシティ | アメリカ合衆国 | 15 | 59 | 27 | 29 | 42 |
エステルスンド | スウェーデン | 18 | - | 25 | 23 | - |
ハカ | スペイン | 19 | - | 5 | - | - |
アオスタ | イタリア | 15 | 29 | - | - |
日本での冬季五輪の開催は1972年札幌オリンピック以来、26年ぶり2度目だった。(1940年も札幌で予定されていたが、第二次世界大戦の影響で中止となっている。冬季の場合は夏季と異なり、非開催は大会の回次番号が付かないため、公式にも日本で2回目の冬季五輪開催となる。)
長野オリンピックの開会式は、天皇(現在の上皇)・美智子皇后(現在の上皇后)臨席の下、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。当初は夜間の開催だったが、アメリカの放映権を持つCBSの要請により昼間に変更。同時に開催時間を2時間以内に設定していた。総合演出(総合プロデューサー)は劇団四季の浅利慶太が担当(シニアプロデューサーが萩元晴彦、音楽アドバイザーが小澤征爾、イメージ監督が新井満、映像監督が今野勉、総合司会が磯村尚徳と道傳愛子)。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱祭の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱の曙の土俵入りが行われ、歌手の森山良子と子供達によりテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」が披露された。
選手入場はオリンピック憲章に則り、ギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は県民歌でもある「信濃の国」に合わせて入場した。
大会組織委員会会長・斎藤英四郎および国際オリンピック委員会(IOC)のフアン・アントニオ・サマランチ会長が挨拶し、「ここに、長野における第18回オリンピック冬季競技大会の開会を宣言します。」との天皇の開会宣言後、湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。
猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美の元冬季オリンピック日本代表選手8人がオリンピック旗を持って入場し、長野市児童合唱団の合唱でオリンピック賛歌が演奏され、オリンピック旗が掲揚された。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場した。
1997年世界陸上選手権10000m銅メダリスト・千葉真子から1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピックノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そして1997年世界陸上選手権女子マラソン金メダリストの鈴木博美が引き継ぎ、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」の中の『ある晴れた日に』が演奏され、1992年アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりの手によって聖火が点火された。
オリンピック宣誓は、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、子供たちのメッセージカードが入った羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が1,998個空に放たれた。
開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京、ベルリン、ケープタウン、ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーベン作曲の交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。指揮は小澤征爾が行い、この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。
さらに演奏終了に合わせて航空自衛隊のブルーインパルスが開会式会場上空で五色のレベルオープナー展示飛行を行った。
屋外競技は全体的に悪天候に悩まされた大会であった。アルペンスキーは競技日程が変更され、スキージャンプ団体戦は競技が一時中断された。
男子滑降が行われる予定だった大会2日目から悪天候が続き競技日程が変更され、大会10日目の16日には男子スーパー大回転、女子滑降、女子複合滑降の3レースが同日実施された。5日遅れで開催された男子滑降では、出場45人中15人が失格・途中棄権となり、うち14人がコース上の同じポイントで失敗をした(1998年長野オリンピックの滑降競技場設営問題も参照)。なお、このシーズンのワールドカップ総合1位のヘルマン・マイヤーも滑降でこの地点で転倒したが、スーパー大回転および大回転で優勝した。
志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるようスタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能であった。
またコース整備は陸上自衛隊が協力し、降雪によりコースが埋没した際の排雪も行った。
日本勢が金2個(ラージヒル個人・船木和喜、ラージヒル団体・日本代表)、銀1個(ノーマルヒル個人・船木)、銅1個(ラージヒル個人・原田雅彦)を獲得した。
日本代表団体の金メダル獲得の裏側を描いた映画「ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜」が制作され、2020年に6月19日に公開予定だった。新型コロナウイルスの影響で延期し、2021年6月18日に公開された。
団体戦の日本代表は冬季五輪3連覇は成らなかったものの5位に入賞した。また個人戦で荻原健司が4位、荻原次晴が6位に入賞した。
クロスカントリースキー男子15kmクラシカルではケニアから出場し、最下位ながらも完走したフィリップ・ボイトを優勝したノルウェーのビョルン・ダーリがゴール地点で出迎えた一幕があった。
大回転とハーフパイプの2種目がこの大会から正式種目として採用された。最初のレースとなった男子大回転で、カナダのロス・レバグリアティがオリンピックチャンピオンになった。しかしレバグリアティは競技終了後、ドーピング検査でマリファナの陽性反応が出たために一旦はメダル剥奪が決定されたが、スポーツ仲裁裁判所(CAS)の裁定により処分は取り消された。
プレシーズンにスラップスケートが登場し、多くの選手がスケート靴を変えての大会となった。スラップスケートが特に威力を発揮すると言われた長距離種目では、エムウェーブの高速リンクと相まって世界新記録が連発した。大会2日目に行われた男子5000メートルでは、メダリスト3選手全員が従来の世界記録を上回った。
日本勢では清水宏保が男子500メートルで金メダル、男子1000メートルで銅メダルを獲得した。また、女子500メートルでも岡崎朋美が銅メダルを獲得した。
多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワンが金メダルを争い、リピンスキーは当時15歳8か月で金メダルを獲得した。なお、リピンスキーはソニア・ヘニー(ノルウェー)の持つ最年少金メダル記録(15歳10か月)を更新した。その後、オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録の更新は難しくなった。
この大会からプロ選手の参加が認められ、ナショナルホッケーリーグ(NHL)は2週間中断した。NHLの選手を多く所属した6カ国は2次リーグからのシード参加となった。その中でもスター選手揃いのアメリカとカナダが注目されたが、ドミニク・ハシェックを中心とした堅い守備を持ったチェコがロシアとの決勝戦を制して金メダルを獲得した。
モーグル女子で、里谷多英が冬季オリンピックで日本女子選手初となる金メダルを獲得した。
正式競技としては1924年シャモニー・モンブランオリンピック以来74年ぶり2度目の実施となった。公開競技として行われた大会を含めると、1992年のアルベールビルオリンピック以来2大会ぶりの実施であった。
なお、観客に内容がわかるように無料でラジオ受信機が配られ、場内で解説が聴けるように工夫された。
閉会式は2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムで開催され、天皇・皇后が臨席した。
各国の選手が入場し、「日本の祭り」というプログラムで長野県の祭りが一堂に集結、創作和太鼓『勇駒、信濃田楽、万岳の響き』の総勢2,000人揃い打ちが小口大八総指揮のもと演じられた。その後、近代オリンピック発祥の地ギリシャ、今大会の開催国でもある日本、次回大会の開催国・アメリカの3ヶ国の国歌が演奏され、オリンピック旗が長野市の塚田市長からソルトレイクシティのディーディー・コラディーニ市長に引き継がれたあと、ソルトレイクシティオリンピック組織委員会によるデモンストレーションが行われた。大会組織委員会副会長の吉村午良とIOCのサマランチ会長のスピーチが行われ、最後はサマランチによって「アリガトナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。その後、大会ファンファーレが陸上自衛隊中央音楽隊によって演奏されたあと、オリンピック旗の降納とともにオリンピック賛歌が演奏・合唱された。
聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱を行い、司会を務めたタレントの萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレでは花火5,000発が打ち上げられ、AGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)が登場し、「WAになっておどろう〜イレアイエ〜」を演奏した。なお、生中継を行った日本テレビの視聴率も30.8%を記録した。
競技名 / 日付 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | |
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開閉会式 | • | • | |||||||||||||||
スキー | アルペンスキー | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
クロスカントリースキー | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
スキージャンプ | • | • | • | ||||||||||||||
ノルディック複合 | • | • | • | • | |||||||||||||
フリースタイルスキー | • | • | • | • | |||||||||||||
スノーボード | • | • | • | ||||||||||||||
スケート | スピードスケート | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||
フィギュアスケート | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ex | |||||||
ショートトラックスピードスケート | • | • | • | ||||||||||||||
アイスホッケー | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||
ボブスレー | • | • | • | • | |||||||||||||
リュージュ | • | • | • | • | • | ||||||||||||
バイアスロン | • | • | • | • | • | • | |||||||||||
カーリング | • | • | • | • | • | • | • |
順 | 国・地域 | 金 | 銀 | 銅 | 計 |
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1 | ドイツ | 12 | 9 | 8 | 29 |
2 | ノルウェー | 10 | 10 | 5 | 25 |
3 | ロシア | 9 | 6 | 3 | 18 |
4 | カナダ | 6 | 5 | 4 | 15 |
5 | アメリカ合衆国 | 6 | 3 | 4 | 13 |
6 | オランダ | 5 | 4 | 2 | 11 |
7 | 日本(開催国) | 5 | 1 | 4 | 10 |
8 | オーストリア | 3 | 5 | 9 | 17 |
9 | 韓国 | 3 | 1 | 2 | 6 |
10 | イタリア | 2 | 6 | 2 | 10 |
長野オリンピックの開催決定により、1991年には北陸新幹線が現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。もともと北陸新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年時点ではフル規格での建設が決まっていた高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。
軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については小諸駅、佐久平駅も参照。
その他の影響として、1994年にはスキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化された。1997年には選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。また、当時現役で運行されていた新幹線200系電車は本来北陸新幹線区間を走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。
また、記念切手も発行された。
競技内容はもちろん、オリンピックの精神や理念を学習する教材資料として1996年3月に長野県教育委員会が製作・発行し、長野県内すべての小中学校全校生徒に配布された。
長野五輪で使用される施設は、少なからずの不法滞在を含む外国人が入り、施設や道路造りに加わったとされる。しかし、その外国人らの多くが入管法違反(不法残留・入国など)で摘発されていると地元紙の信濃毎日新聞は報じている。同記事によると、長野県警は多数の摘発について「ホワイト・スノー作戦」という名称を付けていると言う。これについて、佐久地域国際連帯市民の会の横田隆志代表が「不法滞在の外国人労働者が日本社会を支えているという暗黙の現実がありながら、五輪が来る場にはいられない。日本の現実の姿だと思いますね」と述べている。また長野市内でスナックを経営するフィリピン人の女性が、日本人客から「五輪までに街をきれいにしなきゃいかん。そのうちあんたらも居られなくなるかもな」と言葉を投げつけられたとも同記事は伝えており、信濃毎日新聞はオリンピックの祝福ムードの陰にある外国人への「排除の論理」についても報じている。
1998年長野冬季オリ・パラ大会では、国際オリンピック委員会(IOC)で招致段階における不正疑惑が浮上したが、当時の長野大会組織委員会が帳簿を焼却し、真相は藪の中となった。
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