鈴木 敏夫(すずき としお、1948年〈昭和23年〉8月19日 - )は、日本の映画プロデューサー、編集者。株式会社スタジオジブリ代表取締役議長、徳間記念アニメーション文化財団副理事長。
すずき としお 鈴木 敏夫 | |||||||||||||||
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2004年、ヴェネツィア国際映画祭にて | |||||||||||||||
生年月日 | 1948年8月19日(75歳) | ||||||||||||||
出生地 | 日本・愛知県名古屋市 | ||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||
職業 | 編集者、映画プロデューサー | ||||||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||||||
事務所 | スタジオジブリ(代表取締役議長) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
アニメーション映画
実写映画
OVA
テレビアニメ 小説 ラジオ | |||||||||||||||
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徳間書店取締役、徳間書店スタジオジブリ・カンパニープレジデント、徳間書店スタジオジブリ事業本部本部長、東京大学大学院情報学環特任教授、スタジオジブリ代表取締役社長などを歴任した。
愛知県名古屋市生まれ。名古屋市立金城小学校、東海中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学文学部社会・心理・教育学科社会学専攻を卒業。大学在学中は執筆作業など多くのアルバイトを経験した。就職活動では執筆作業の経験があることから知人の助言もあって新聞社や出版社を志す。動き出したのが遅かったことから大半の入社試験が終わっていた中で新聞で募集告知を見た徳間書店を受験。更に、野球が好きだったことからスポーツ新聞社にも興味を持ち、その中で「当時ほとんどのスポーツ紙の一面がジャイアンツだった中で、ここだけ一面が東映フライヤーズ」「メジャーの記事がいっぱい載っていて、ここへ入るとアメリカへ行けるかな」と思ったことからスポーツニッポンも併せて受験。しかしこのスポニチの面接の時に面接官が服が乱れた状態でひっくり返って座っていたのを見て、面接に臨もうとする自分には失礼なように映ったこともあって「人の人生が決まるかどうかっていう時にその態度はないんじゃないですか」と口答えしてしまう。後日、スポニチが不合格になったのはこれが原因だったと言うことを明かしている。なお、スポーツニッポンの所属する毎日新聞グループが主催する「第78回(リンク先では77回となっているが78回が正しい)毎日映画コンクール」(2023年の一年間の作品が対象)にて「特別賞」を個人受賞するとともに映画『君たちはどう生きるか』が「アニメーション部門 大藤信郎賞」に選ばれ、2024年2月に授賞式に出席(後述)。3月には第96回アカデミー賞で同作が長編アニメ映画賞を受賞し、宮﨑駿と鈴木の両名に授与された。
大学卒業後の1972年、徳間書店入社。『週刊アサヒ芸能』企画部へ配属される。1973年、成人向け劇画雑誌『コミック&コミック』編集部を経て、同年黒崎出版より刊行されていた、児童向けテレビ番組雑誌『テレビランド』がオイルショックのあおりを受けて徳間書店へ売却され、編集スタッフごと移ったのを機に自ら希望して『テレビランド』担当の児童少年編集部へ異動。
1978年、同編集部よりアニメ雑誌『アニメージュ』が創刊、発行される。80-81年、富野由悠季の連載「イデオン・ライナーノート」の担当編集者、「イデオン」特集も手がけた。1981年には宮崎駿を初特集する。宮崎とは共同で『戦国魔城』と題した映画を企画し、徳間書店社長徳間康快に提出した。結果は不採用であったが、1982年に宮崎執筆の漫画『風の谷のナウシカ』連載開始に尽力する。後に同作の映画化が決定すると、宮崎の意を受け、プロデューサーを引き受けるよう高畑勲を説得し、以降は高畑とともに『風の谷のナウシカ』の製作を支えた。
その後は『アニメージュ』初代編集長の尾形英夫が児童少年編集部全体の統括を担うと、実質的に『アニメージュ』の編集実務を担当し、後に尾形の後任として、正式に2代目編集長に就任した。『風の谷のナウシカ』映画化後は徳間書店側の制作委員も務めた。
1989年10月にスタジオジブリへ移籍して以降は、同スタジオのほとんどの作品で映画プロデューサーを務めている。移籍した当時、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』・『火垂るの墓』等の興行成績は振るわず、『魔女の宅急便』が最後だと言われる状況であった。そこで、日本テレビと提携することで、『魔女の宅急便』をヒットさせ、後のスタジオジブリ作品の興行的成功とブランド確立につなげた。メイキングビデオ『もののけ姫はこうして生まれた。』では、爆発的なヒットを仕掛けた宣伝プロデューサーとしての一面が収められている。しかし『ホーホケキョ となりの山田くん』や『イノセンス』では興行目標がクリアされなかった。
1997年、スタジオジブリが徳間書店に吸収合併され、社内カンパニーとして発足した「スタジオジブリ・カンパニー」のプレジデントに就任した。1999年、同書店が事業本部制を導入し、「スタジオジブリ事業本部」が設立されると、本部長に就任した。2005年、スタジオジブリが徳間書店から再独立した際には、代表取締役社長に就任した。2008年2月1日付でスタジオジブリ代表取締役社長を退任し(後任は星野康二)、以降は代表取締役プロデューサーを務めていた。
『イノセンス』で共同プロデューサーをした、もう一人のプロデューサー石川光久に「ジブリの社長をやってくれないか」と打診していたが断られている。
2016年に初の公開師弟対談を行う。対談相手は鈴木の下で仕事を学んだ石井朋彦。
2023年10月6日、日本テレビ放送網がスタジオジブリの株式を取得して子会社化したのと同時に鈴木はスタジオジブリの代表取締役議長に就任した。
本業以外に『耳をすませば』に端役で出演している。『ハウルの動く城』では宮崎監督に代わり、公式ポスターの原画を、『ゲド戦記』では題字を担当している。押井守監督作品の実写映画では短編『KILLERS キラーズ』で「悪徳アニメプロデューサー」役、2006年公開の『立喰師列伝』では立喰師役の一人(これは本人の懇願によって実現した)、『THE NEXT GENERATION -パトレイバー-』のエピソード6では「『熱風社』」映像プロデューサー」として出演している。また、DVD『ノンちゃん雲に乗る』の中で、大橋のぞみに付く二枚目風運転手役で出演しその横顔を決めている。2004年には東京大学大学院の情報学環にて特任教授に就任し、「コンテンツ創造プログラム」などを講じた。
公開年 | タイトル | 役職 |
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1984 | 風の谷のナウシカ | 製作委員会実行委員 |
1985 | 戦国魔神ゴーショーグン 時の異邦人 | 出版プロデューサー |
1986 | アリオン | 製作委員会実行委員 |
天空の城ラピュタ | ||
1987 | 紅い眼鏡/The Red Spectacles | 製作協力 |
デジタル・デビル物語 女神転生 | プロデューサー | |
1988 | となりのトトロ | 製作委員会実行委員 |
火垂るの墓 | 企画 | |
1989 | 魔女の宅急便 | プロデューサー補佐 |
1991 | おもひでぽろぽろ | プロデューサー |
1992 | 紅の豚 | |
1994 | 平成狸合戦ぽんぽこ | |
1995 | 耳をすませば | |
ジブリ実験劇場 On Your Mark | ||
1997 | もののけ姫 | |
1999 | ホーホケキョ となりの山田くん | |
2000 | サトラレ TRIBUTE to a SAD GENIUS | 製作 |
式日 | ||
2001 | リセス 〜ぼくらの夏休みを守れ!〜 | |
千と千尋の神隠し | プロデューサー | |
2002 | めいとこねこバス | |
コロの大さんぽ | 製作プロデューサー | |
猫の恩返し | ||
ギブリーズ episode2 | 製作プロデューサー・キャラクター原案 | |
2004 | イノセンス | プロデューサー |
ハウルの動く城 | ||
2006 | ゲド戦記 | |
2007 | 真・女立喰師列伝 | 題字 |
2008 | 崖の上のポニョ | プロデューサー |
2009 | チェ 28歳の革命 / 39歳 別れの手紙 | キャッチコピー |
2010 | トイ・ストーリー3 Toy Story 3 | スペシャルサンクス |
借りぐらしのアリエッティ | プロデューサー | |
2011 | コクリコ坂から | |
2012 | 巨神兵東京に現わる | 製作 |
2013 | 風立ちぬ | プロデューサー |
かぐや姫の物語 | 企画 | |
2014 | 思い出のマーニー | 製作 |
2016 | ガルム・ウォーズ | 日本語版プロデューサー |
レッドタートル ある島の物語 | プロデューサー | |
2017 | メアリと魔女の花 | 感謝 |
2021 | シン・エヴァンゲリオン劇場版 | 協力 |
2023 | 君たちはどう生きるか | プロデューサー |
鈴木敏夫
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ビジネス | ||
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先代 (新設) | スタジオジブリ社長 初代:2005年 - 2008年 | 次代 星野康二 |
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