笹沢 左保(ささざわ さほ、1930年〈昭和5年〉11月15日 - 2002年〈平成14年〉10月21日)は、日本の小説家。本名は笹沢 勝(ささざわ まさる)。
ペンネーム | 笹沢 佐保 |
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誕生 | 1930年11月15日 東京府淀橋町 |
死没 | 2002年10月21日(71歳没) 東京都狛江市 |
職業 | 小説家 |
国籍 | 日本 |
ジャンル | 時代小説・推理小説・サスペンス小説 |
代表作 | 『木枯し紋次郎』 |
主な受賞歴 | 宝石賞佳作(1959年) 日本探偵作家クラブ賞(1961年) 日本ミステリー文学大賞(1999年) |
デビュー作 | 『招かれざる客』 |
親族 | 笹沢美明(父) |
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テレビドラマ化されて大ヒットした『木枯し紋次郎』シリーズの原作者として知られ、推理小説、サスペンス小説、恋愛論などのエッセイ他、歴史書等も著し、380冊近くもの著書を残した。
詩人笹沢美明の三男として東京府淀橋町(現・東京都新宿区)にて出生。その後、神奈川県横浜市に移った。父は貿易商だった祖父の遺産を受け継いだが、財産を使い果たして貧困の中で育つ。子供の頃から探偵小説を愛読し、雑誌『ロック』の懸賞小説にも応募した。
横浜では関東学院高等部に通うが、家出を繰り返し、中退(資料によっては1948年卒とも記される)。
1952年、東京にもどり郵政省簡易保険局に勤務、労働組合の執行委員なども務め、この頃から、芝居の台本を試作している。
1958年、全逓信労働組合の機関誌『全逓新聞』の懸賞小説に応募した「ある犠牲」が入選。同年11月に飲酒運転の自動車に撥ねられ、全治8ヶ月の重傷を負い入院。入院前に探偵小説誌『宝石』の懸賞小説に応募していた短編「闇の中の伝言(のち「伝言」と改題)」「九人目の犠牲者(のち「九人目」と改題)」が、1958年12月増刊号に発表。
1960年、『週刊朝日』『宝石』共同短編小説コンクールに「勲章」が佳作入選。また退院後の療養中に執筆した初長篇『招かれざる客』が第5回江戸川乱歩賞候補次席となり、改稿版が1960年3月に刊行されて本格的な小説家デビューを果たした。この年には『霧に溶ける』『結婚って何さ』『人喰い』の3長編を矢継ぎ早に発表。1961年、『人喰い』で第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞、郵政省を退職して作家専業となる。『空白の起点』『真昼に別れるのはいや』(1961年)、『暗い傾斜』、(1962年)『突然の明日』(1963年)など、ムーディでトリッキーな[要出典]本格ミステリーの傑作・佳作を次々に発表し、「新本格派のホープ」と謳われ、みずからも新本格派と称していた(これは犯罪トリックの設定における本格派であるにくわえ、人物設定のリアリティー追及を意味した)。
筆名の左保は、夫人の名前(佐保子)からとったもの。デビュー当時の筆名は笹沢佐保だが、『招かれざる客』の単行本でデビューした翌年から左保と改めた。
1962年発表の短編「六本木心中」で、推理小説的な趣向を廃した[要出典]現代小説に挑戦、同年下半期の直木賞候補にもなり、受賞確実との前触れすらあったが、結局は叶わなかった。(これ以前にも『人喰い』『空白の起点』で直木賞候補になっている)。この頃、笹沢は「本格派」を提唱しつつもも、殺しのないミステリーである作品を著作しており、心中もの三部作も、このとき生まれている。「六本木心中」は"少年少女の虚無の愛を描いた"作品で、推理小説に"人間不信のドラマ"を絡めたものだと評された。
1970年、『小説現代』の新・股旅小説と銘打たれたシリーズで発表した「見返り峠の落日」で時代小説にも進出。翌年「赦免花は散った」から書き継がれた『木枯し紋次郎』シリーズは、中村敦夫主演でテレビドラマ化され、一大ブームを巻き起こすほどの人気作となった。
その後も、現代ものでは、誘拐ミステリーの傑作『真夜中の詩人』(1972年)、『遥かなりわが愛を』(1976年)などアリバイ崩しと歴史推理を融合した伊勢波シリーズ、誘拐ものとタイムリミット・サスペンスを融合した『他殺岬』(1977年)、密室トリックが巧緻な『求婚の密室』、1990年以降も2時間サスペンスドラマでお馴染みのタクシー・ドライバー探偵夜明日出夫が活躍するシリーズ『アリバイの唄』などや、『取調室』シリーズ等、数多くの傑作・話題作を発表。またミステリーに官能小説の要素を取り入れた、官能サスペンスの分野を切り開き[要出典]、『悪魔の部屋』ほか続編からなる「悪魔シリーズ」で官能サスペンスの書き手として名声を馳せた時期もあった。
ミステリー手法を積極的に取り入れた時代小説でも『さすらい街道』『地獄の辰無残捕物控』(1972年、「地獄の辰捕物控」としてテレビドラマ化)、『半身のお紺』シリーズ(1974年~)、『剣鬼啾々』(1976年)、『新大岡政談』(1979年)、『真田十勇士』(1980年)、『夢と承知で』(1985年)、『俳人一茶捕物帖』(1989年~)、『宮本武蔵』(1990年~)等、多くの傑作・話題作をものにした。作家活動中の42年間の作品は377冊に達する。
晩年は、紋次郎の架空の出生地三日月村に似た三日月町が佐賀県に実在すると知り、その場所で1987年療養入院。その後、隣接する富士町に自宅を構えて移り住んだ。1995年には佐賀市兵庫町に移動したが、のちにこの富士町の邸宅跡は笹沢左保記念館となっている。
以後その地で旺盛な執筆活動を継続し、九州さが大衆文学賞(笹沢左保賞)の創設・運営にも携わり後進を育てた(2017年、第24回の授賞をもって終了)。2001年に佐賀を離れ東京都小平市に戻り、2002年10月21日、東京都狛江市の病院で逝去した。
森村誠一は自身のウェブサイトで笹沢左保追悼式の様子をレポートし、サイト内で「笹沢左保特集」も公開した。森村は未完となった『海賊船幽霊丸』の最終章を加筆して、一周忌に刊行した。
最盛期には月産1,000~1,500枚に達することもあったほどの多作でありながら、"つねに新しい新機軸を生み出し"と百目鬼恭三郎の評にあるごとく、実験的な試みを多くの作品で行っているのは注目に値する。とりわけ、股旅物に推理小説の技巧である、どんでん返しや鮮やかなエンディングを取り入れたことは、よく知られる。
その他にも、極端に登場人物を少なくした『三人の登場人物』、官能サスペンスの試み『悪魔の部屋』、会話文のみで書かれたミステリー『どんでん返し』や『同行者』、アリバイ・トリックのどんでん返しがある『後ろ姿の聖像』、2人の探偵役が毎回異なる推理をぶつけ合い対決する連作『セブン殺人事件』、著者自身が探偵役となって活躍する『真夜中に涙する太陽』、四重交換殺人に挑んだ『霧の晩餐』等、このような作品は枚挙に暇がない。しかも成功作が多いという点でも、多作型の本格推理作家の中では異彩を放っている。
推理小説の特殊性に、強いこだわりを持っていた。推理小説が、本格であること("謎とき"など)は最低必須であり、そこからさらにリアリティー等も追及しなければならない、それがこれからの"新本格"のあるべきかたちである、と持論を説いていた小松左京のSF長編『日本沈没』が日本推理作家協会賞候補になった際、選考委員の中で受賞に最も強く反対したのが笹沢であった。笹沢は江戸川乱歩賞の選考委員を務めていた際も、推理小説の枠が拡がりすぎて、本質が見失われつつある現状を憂いたコメントを繰り返している。1977年には、「風俗小説化の功罪」と題するエッセイで推理小説の風俗小説化を弾劾している。
2000年に有栖川有栖、二階堂黎人、綾辻行人ら若手推理作家が中心となって結成された「本格ミステリ作家クラブ」にも、会員として名を連ねた。有栖川は熱心な笹沢ファンで、その心酔ぶりは長編『マジックミラー』中の「アリバイ講義」や、『有栖川有栖の密室探求』などの著書からもよく窺える。笹沢が死去した時には、追悼文も寄稿している。
1981年に著作200冊突破記念として書いた日本人論的エッセイ『明日はわが身』の世の中を憂える内容に、大きな共感が寄せられてベストセラーとなり、その主張を実践すべく1982年に「青年塾」を設立した。年内に200回の講演をこなし、各地でそれぞれの青年塾が誕生、総会員数8500人を数え、教育委員会やPTAなどの協力による青少年非行非行化防止の運動が推進された。
佐賀市富士町に笹沢佐保記念館がある。
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