板橋(いたばし)は、神奈川県小田原市にある地名。箱根登山電車箱根板橋駅周辺で、早川に面する。郵便番号は250-0034。旧東海道が通っている。
板橋 | |
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大字 | |
箱根板橋駅 | |
北緯35度14分47秒 東経139度08分42秒 / 北緯35.246347度 東経139.145025度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 神奈川県 |
市町村 | 小田原市 |
地域 | 中央地域 |
人口情報(2023年(令和5年)9月1日現在) | |
人口 | 3,345 人 |
世帯数 | 1,507 世帯 |
面積() | |
1.074808202 km² | |
人口密度 | 3112.18 人/km² |
郵便番号 | 250-0034 |
市外局番 | 0465(小田原市MA) |
ナンバープレート | 湘南 |
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小田原市の中央部に位置し、地域の大部分は早川の北岸に広がる。隣接地域はいずれも小田原市内で、西部は風祭、北部は水之尾、荻窪、十字、東部は城山、南部は早川地区と接している。
道路は、西部に小田原厚木道路、南部の早川南岸側には西湘バイパスが通り、地域内に小田原西インターチェンジがある。南部の早川北岸側には国道1号(旧東海道)が通っている。板橋見附交差点以西の一部区間について、旧東海道の旧道が国道と分離している。
鉄道は、東部に東海道新幹線が通っているが、地域内に駅はない。南部に小田急箱根鉄道線(箱根登山電車)が通り、地域内に箱根板橋駅がある。
住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、板橋字堂屋敷730番13の地点で14万6000円/m2となっている。
2023年(令和5年)9月1日現在(小田原市発表)の世帯数と人口は以下の通りである。
大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
板橋 | 1,507世帯 | 3,345人 |
国勢調査による人口の推移。
年 | 人口 |
---|---|
1995年(平成7年) | 3,933 |
2000年(平成12年) | 3,839 |
2005年(平成17年) | 3,833 |
2010年(平成22年) | 3,864 |
2015年(平成27年) | 3,788 |
2020年(令和2年) | 3,502 |
国勢調査による世帯数の推移。
年 | 世帯数 |
---|---|
1995年(平成7年) | 1,358 |
2000年(平成12年) | 1,384 |
2005年(平成17年) | 1,433 |
2010年(平成22年) | 1,474 |
2015年(平成27年) | 1,524 |
2020年(令和2年) | 1,512 |
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年7月時点)。
番地 | 小学校 | 中学校 |
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210~362番地 | 小田原市立早川小学校 | 小田原市立城南中学校 |
865番地 | 小田原市立三の丸小学校 | 小田原市立城山中学校 |
その他 | 小田原市立大窪小学校 | 小田原市立城南中学校 |
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。
大字 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
板橋 | 134事業所 | 980人 |
経済センサスによる事業所数の推移。
年 | 事業者数 |
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2016年(平成28年) | 139 |
2021年(令和3年) | 134 |
経済センサスによる従業員数の推移。
年 | 従業員数 |
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2016年(平成28年) | 1,026 |
2021年(令和3年) | 980 |
北条氏康が小田原を治めていた頃に、この地域の早川から取水し小田原城下へ水を引き入れる公共水道「小田原早川上水(小田原用水)」が作られた。この地域のその上水上に、板の橋がかかっていたことから、この地域は板橋村と呼ばれるようになった。
板橋村は、小田原府内と境を接していたことから、小田原城防衛のため、東海道の境界上には「板橋見附」が置かれ、1589年には、府内との境界に、土塁と空堀の囲いからなる総延長約9kmの「小田原大外郭」が築かれた。また、寺院の塀が城の防御壁としても利用できることから、地域内に多くの神社仏閣が点在するといわれている。
板橋村には、北条氏支配時代から熟練した職人が数多く居住するようになった。代表的な人物に、1530年から北条氏綱によって城中の染物の仕事を任された津田藤兵衛や、江戸城の石垣作りに参加し、その石工技術が徳川家康から賞賛されたという石屋善左衛門がいる。
明治期に入ると、1889年の町村制施行により板橋村は周辺の村と合併して足柄下郡大窪村となり、村役場が板橋地区に置かれた。その庁舎は現在でも小田原市役所大窪支所として使われている。
1888年に小田原馬車鉄道が開通すると、小田原の海岸地域を中心に伊藤博文の滄浪閣をはじめとする別荘が多く建設されるが、1902年の小田原大海嘯によってそれらが打撃を受けてからは、1907年の山縣有朋の古稀庵をはじめ、丘陵のこの地区等に別荘・別邸が建設されるようになる。他に、益田孝の掃雲台、清浦奎吾の皆春荘、大倉喜八郎の山月、松永安左エ門の老欅荘がある。1918年には北原白秋が隣接する現城山地区の伝肇寺寺内に「みみずくの家」を建てて移り住んだ。
1940年に、大窪村は小田原町等と合併し、小田原市となった。
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