松林苑(しょうりんえん)は、奈良時代、とりわけ聖武朝に活用された平城宮に付属した、離宮をともなった苑地。松林宮・松林・北松林とも呼ばれていた。
神亀6年(729年)から天平17年(745年)まで7回にわたり『続日本紀』に散見しており、天皇が宮人とともに3月3日の曲水の宴や5月5日の騎射などの年中行事を行った場所である。
「北松林」とあるところから、平城宮の北にあったと推定され、また曲水の宴を行った場所として、庭園の施設を有し、天平17年の記述から倉庫群も建てられていることが分かる。平城宮木簡一 - 77号に「松原草除充夫」とある「松原」も松林苑である可能性がある。弘仁13年(822年)3月28日太政官符所引の天平神護2年(766年)2月20日勅書に見える「松原倉」も松林苑の倉庫であるとも考えられる。
この松林苑の遺跡は、橿原考古学研究所の調査により、平城宮の北にある築地痕跡をともなう区画が比定されている。その規模は現状の地形と築地痕跡から、南北1キロメートル以上、東西500メートル以上の南北に長い不整形の区画で、内部の中央に南北220メートル、東西200メートルの方形の内郭があったと推定されている。発掘調査は西面外郭の築地や、南面外郭の築地の部分的に行われており、外郭の築地は基底幅2.4メートルっで瓦葺きであったことが確認されている。築地基部の外側には、幅90センチメートルの犬走りがあった。
さらに、南西隅の部分発掘で、西面築地が鉤の手に曲がっており、南面築地の縁を越して、平城宮に向けて伸びていることがわかり、このことで、松林苑が平城宮と連続した施設であったことが推測される。出土した瓦も平城宮の瓦の編年でいう第二期にあたり、『続紀』の年代と矛盾していない。
中国の都城の宮城の苑地(禁苑)にならった施設とする説がある。北魏の洛陽城の華林園、唐の長安城の西内苑など,苑池は宮城の北に設置することが多く、飛鳥浄御原宮には「白錦後苑」があり,藤原宮も出土されている木簡から宮の北に苑池が存在したことが分かっている。
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